私の後悔
人間は意味が分からない。
助けてあげたのに。
それだけじゃない、加害者側から2億も貰える事になったのに…… そんな顔されると、気分が悪い。
私は、『不愉快』という感情を覚えた。
人の気配の無いダイニングキッチンには、確かに人は居るのだけれど、あの子もお父さんも、食事を摂り終えたにも関わらず一向に動こうとしない。
なんだか、椅子が抜けてしまいそうだと思った。
だって、石像みたいだったから。
こんな空気の中だから、『飲酒運転、死亡事故』、と銘打ったスキャンダルが余計に騒音にしか聞こえない。どうやら突っ込んだ本人は大火傷を負いながらも一命を取りとめたらしく、「何故助けなかった」とメディアに散々叩かれていた。
人間は訳が分からない。
折角生き延びられたのに、どうして誰も「生きてて良かった」と言わないのだろう。
死んだ方が良かったのだろうか。
だったら、あの母親は死んで更に2億貰えるのに、どうしてこの人たちはこんなに悲しんでいるのだろう。
……もっと合理的に考えればいいのに。
良かったね、たった一人の命で、億万長者になれて。
私に人語が話せたなら、きっとこう言う。
*
あの子はまだ、下を向いて歩く。
どうやら、まだ私を見逃さないようにしてくれているらしい。だけど私は、二度と姿を表すつもりはなかった。
これ以上はこの子の為にならない。
これから起こり得る全ての障害を取り除いて良いのだろうか―― そう考えた時、私の記憶はこの子に憑く前まで遡っていた。
友達が沢山居た。
時には一人で居る子まで引っ張って、素足で川に入って石の裏に居る虫を探しては大騒ぎしていた。
だけど。
あの子はもう、川には入らない。
川だけじゃない。あの子は自分の意思で、コンクリートでならされた道だけを歩いている。
私のせいで。
私を見逃さないために。
下ばかり向いて歩いて、友達がどんどん居なくなっていく。
いたたまれないとは正にこのことだ。
あれだけ散々忠告されたにも関わらず、関わらなければ良かったと思ってしまった事すらある。
だけどそれは、「やっぱり言った通りだろう」と言われるのが悔しくて、『とまれ』と姿を現し続けた。
だから正直、あの子の寿命を乗り越えられた時、開放されたと思ったのだ。私も、あの子も。
彼の背中を見つめる。
すると突然姿が消えた。ぬかるみで足を滑らし、転倒してしまったからだった。うっ、と短い悲鳴を上げる。勿論、怪我をすることは分かっていたので、彼が突然転んだ事に驚いた訳では無い。私は揺らされた決意に駄目だ駄目だと首を振った。
私はもう、怪異らしく感情を表だって出さないと決めたのだ。あの子が私に依存しているのは分かっている。分かっているからこそ、ここは心を鬼にしなければならないのだ。
あの子は、座り込んだままぴくりとも動かないけれど、だけど私は、決意したから見守り続ける。
そうして私は、自分が良かれと思ってきたことの浅ましさを知る。
この時の、瞳がどす黒く濁っていく様は忘れられない。
太陽を見ていた。
太陽を見ていると思っていた。
だけど日が沈んでもそこから動かず、辺りは薄暗くなっていく。山の輪郭すら黒塗りされて行き、やがて、ぴくりとも動かないのが恐ろしくなった。
誰かが駆けてくる音がする。帰りの遅いあの子を探して、お父さんが息を切らせてやってきたのだ。彼をみつけて、大きく息を吸いこみ何か叫ぼうとした。だけど、余程全力で走ってきたのか、一度はむせかえって声にならずに消えてしまう。
「奏、こんなところで何やってるんだっ!」
カラカラに乾いた喉が整うのすら待たなかった、いや、待てなかった、耳に痛いガラガラ声。残されたものを守りたいと張り上げたそれは、私は純粋に美しいと思った。
でもあの子は、星すら見えない暗い暗い空を見上げて言うのだ。太陽を指差すように。「お母さんが燃えるのを見ているんだ」、と。
――良かったね、たった一人の命で、億万長者になれて。
寒気がした。
*
理屈で片付けられないものを見た。
言葉を無くしたあの子のお父さんは、後からあの子を、強く強く抱き締め続ける。だけどあの子は動かない。まるで、体を置き去りにして、魂を何処かにやったように。
きっと今のあの子には、お父さんが、涙を噛み殺していることにも、気がついていないのだろう。
私に、「気分が悪い」だの「不愉快」だの言う資格があるのだろうか。
無性に自分の体を引き裂きたくなった。
でも自分には掻き毟る体すらなくて、私は、声に出来ない悲鳴をあげることしかできなかった。
おかしくなってしまいそうだ。
おかしくなってしまいそうだ……
私はどうすればいいのだろう。
もう一度、姿を現した方がいいのだろうか。
だけど、だけど――。
決意と後悔の狭間で揺れる。
あの子は今日も、学校を休んでいた。
部屋から一歩も出ることなく、毛布にくるまって三角座りをしたまま、ずっとずっと小さくなってくるまっている。
そして彼は、何かの限界が来たように突然叫んだ。
「なぁ、そこに居るんだろ!? 出てこいよ…!」




