線路少女は笑わない 9
インターホンを二度押してみたものの、両方とも帰ってきたのは沈黙だけであった。家の裏に回って中を覗き込んでみたりもしたものの、中に人がいる気配はなかった。家を間違えたのかと思い再び表札を見直してみたものの、そこにはきちんと黒い文字で「白河」と刻んであった。どうやら留守のようだ。
「留守みたいなので出直しましょうか」
彼女がそう提案したので、僕たちは家を一旦離れて、下町の商店街で夕食を済ますことにした。街に来たころは茜色だった空もすっかり暗くなってしまっていた。
商店街の界隈ではシャッターを閉める店も目立ち始めてきた。僕たちは手ごろに飲食店に入り、軽く夕食を済ませた。料理は確かにおいしかったはずなのだが、味はよく思い出せない。雪菜のほうも少し焦っているようで、おばあちゃんのことについて思いにふけるあまり、あまり箸が進んでいない様子だった。彼女に聞くところによると、祖母はあまり外出するタイプではないらしく、夜に出かけることはまずないということであった。急に不安が僕の精神を駆り立てた。彼女の祖母に何かあったのかもしれない。僕は突然立ち上がった。彼女は少し驚いた様子だったが、焦燥に駆られた僕の心には届かなかった。
「おばあちゃんを探しに行こう!!」
彼女の祖母を探すために店を出たころには、大都市の下町はすっかり姿を変えていて、「夜の街」の様相となっていた。さすがにこの時間になると街を歩くお年寄りも少なく、探しやすいだろうと思っていたのだが、街の中心街は仕事帰りの若衆でにぎわっていた。後から知ったことだがここは江戸時代までは遊郭で、吉原に次いで人気があったらしく、今でも夜は若者でにぎわうらしい。中心街を必死に探し回っている間に、僕たちはいつの間にか市街を外れてしまっていた。
街外れを歩き回っていると、今までずっと黙っていた雪菜が初めて声を上げた。ちょうど東都線の駅近くの踏切近くに差し掛かった時であった。
「あの人です、あの人が私のおばあちゃんです」
彼女が指差した方向を向いていると、ちょうど踏切の前に老婆が立っていた。髪は歳のせいかすでに真っ白に染まってしまっているが、腰はあまり曲がっておらず、角度のせいか顔はあまり見えないが、少しながら見える横顔は優しく、ハッキングした際市のホームページで見た顔とそっくりのように思われた。
雪菜はその老婆が自分の祖母であると確信すると、踏切のほうへ走り出した、しかし束の間、彼女は足を止めた。老婆の挙動がおかしかったからだ。踏切のすぐ前にいた老婆は踏切のほうへ足を踏み出そうとしているように見えた。無論踏切は甲高い音を夜の街に響かせながら閉まっているのだ。すでにすぐ近くに見える千代丸駅からは青田方面小宮行き快速列車が出発していた。
僕は確信した。「彼女のおばあちゃん」は自殺する気だ。
思考すると同時、僕はその老婆のほうに駆け出した。何としても救わねばならない、その思いだけが僕の脳を支配した。僕の後ろでは小さな少女が叫び声をあげていたが僕の脳には届かなかった。列車はすでに速度を上げて踏切に差し掛かろうとしていた。僕は何とか踏切に近づくと、臨死の老婆に手を伸ばし、その躰を抱き上げた。列車は轟音を立てながら過ぎていった。
列車から逃れてしばらくは老婆は驚きのためかその場に倒れたままであったが、その後は何の造作もなく立ち上がった。
「なぜ私を助けたのじゃ、私はもう半分死んだ体じゃのに」
老婆-白河ハルの声には全く力が欠けていた。その眼は完全に生を捨てているかのように見えた。
「死のうとしている人を助けるのは人として常識だと思いますよ」
僕は少し暗空に目を向けながら言うと、ハルさんはうつむきながら話し始めた。
「孫を事故で無くしてはや十年。私は無為にこの世で暮らしてきた。死んでしもうて数日は事実を受け入れられなんで悲しみの念を感ずるのさえ困難じゃったが、その後は数年間、前の如く変わらぬ日々を過ぐしてしまった。しかしなあ六年ほど経ちて急に疑念が湧いたのじゃ、なぜ孫が逝ってしまったのに私はまだ生き永らえているのか、と。だから私も死んで、あの子に会いに行こうと思ったのじゃがの」
ハルさんは顔を上げ、目を細めた。
「雪菜はもういないんじゃ…」
老婆はそうつぶやくとその場にしゃがみ込んでしまった。
「雪菜はいますよ」
僕は老婆の頭を見下ろしてそういった。すると老婆は驚いたように顔を上げた。だから僕はもう一度その顔に同じ言葉を浴びせた。
「雪菜は此処にいますよ。」
老婆は状況を理解できないのかしばらく狼狽えていた様子であったが、突然立ち上がったかと思うと、僕を捲し立てた。
「こんの小童は私を助けただけじゃのうて、私を傷つける嘘まで吐き居るか!」
「証拠を出してみい証拠を!」
老婆はすっかり激昂してしまっている様子だった。このままだともう一度線路に飛び込みかねない。僕は自分のズボンのポケットに手を入れた。
「証拠なら、あります」
僕はポケットの中から一つのネックレスを取り出した。
「雪菜は確かに死にました、でも彼女はまだこの世にいます。彼女は成仏できなかったんです。このネックレスをあなた-白河ハルさんに返すためです。そのために僕たちは神七川県の都村から来たんです」
僕がこう話すと老婆は下を向いて黙り込んだ。しばらくすると、老婆は僕の前に対峙した。
「では雪菜はどこにいるのじゃ」
老婆がそう言ったので、僕は心の中で「もういいよ」と雪菜につぶやいた。すると僕がハルさんと話している間ずっと僕の背後に隠れていた雪菜が僕の右隣にぴょんと現れた。
「おばあちゃん、私だよ。雪菜だよ」
不意に現れた孫の声に老婆はかなり驚いた様子であった。どうやら彼女には雪菜の姿が見えるようだった。老婆の顔は先程の張りつめた表情から、孫に接する祖母の顔に変わっていた。
「ああ雪菜!会いたかった。まさか生きている間にもう一度会えるとは思わなんだ」
老婆は知らず知らずホロホロ泣いていた。
「泣かないでおばあちゃん。私は笑っているおばあちゃんにコレを返しに来たの」
雪菜はそういうと先ほど僕が渡したネックレスを両の掌に載せて、微笑んだ。
「帰ろう、おばあちゃん」
孫がそういうと、祖母は優しい顔でネックレスを受け取り、夜の道を歩き始めた。
次でついに最終回です。
6/4加筆修正