線路少女は笑わない 7
部屋に戻るとさすが民宿、すでに布団が敷いてあった。しかし問題が一つあった。そう、布団が一つしかないのだ。もっともこれは当たり前で予想できたことだった。宿側からしたら普通のことなのだ。宿泊客は僕一人なのだから。この部屋は別館でそもそも宿泊用の部屋ではないらしい。一樹が急な予約を聞いて宛がってくれた部屋だ。だからこの部屋には押入れがない。この布団はおそらく一樹が本館から持ってきてくれたものだろう。布団の一つや二つ一樹に頼めばもってきてくれるのかもしれない。でもそれはできないだろう、明らかに不自然だ。無論僕の寝相が悪いのかと思って快く持ってきてくれるかもしれないが、なんだか少し気が引けた。
「どうかしたんですか?」
僕がそうこう考えていると少女が部屋に戻ってきた。ついさっき風呂から上がったばかりのようでその黒髪はまだ少し濡れている。
「うん、布団が一つしかないんだけどね。どうしようか」
僕がそう言うと彼女はまたですかと溜め息をついた。
「…これは一緒に寝るしかないんじゃないですかねえ?」
斯くして僕たちは同じ布団で一緒に寝ることになった。人には見えないものの彼女は質量を持って実体化できるらしく、自転車に乗る時もそうやって乗っていたらしい。そしてなぜか今も彼女は実体化している。
「なんで今実体化してるのさ?」
僕は布団に入ったものの寝る様子のない少女に尋ねた。
「寝るときは実体化するって決めているんです。寝る時ぐらいは自分の体が欲しいじゃないですか。」
そういって彼女は僕のほうを振り向いた。僕は彼女が霊体化してる時しか知らず、僕はまだ彼女の肌に触れたことがなかった。今まで触れ合うことのなかった彼女の肌のぬくもりが僕の感覚を確かに震わせた。間近で見た彼女の顔は年相応の童顔でその瞳は全くの濁りなく透き通っている。
「どうかしましたか?」
僕が彼女の顔をぼうっと見ていると彼女は顔を上に向けて尋ねた。
「ううん、何でもない」
そこで僕はハッと気づいた。そういえば。
「そういえば君の名前を僕はまだ知らないんだけど、もしかしてそっちも憶えてないの?」
そう尋ねると彼女は笑って、再び僕のほうを向いた。
「雪菜。白河雪菜。おばあちゃんがつけてくれた名前なんです。忘れるははずがありません」
彼女はそれっきりそっぽを向いてしまい、すぐに寝息を立て始めた。
その日の相川市の夜はいつも通り都会特有の明るい電飾に照らされながらも、僅かなる星が空に輝いていた。
翌日、僕たちはおじさんと一樹に見送られながら相川市を発った。
次に目指すのは東京大都と神七川県の県境にある神七川県の中核都市、東神市だ。平成の大合併で東江市と榊町が合併して誕生した市で、人口こそは相川市に劣るものの、その街の活気はかなり盛んなものである。相川市からはかなり離れているが、計算によると夕方には到着することになっている。このままのペースで走れば明日の夜には大都市に到着できるかもしれない。だから、今日の夜が彼女-雪菜と過ごす最後の夜になるかもしれない。
自転車の荷台に座る雪菜は朝早くに出発したため眠いのか昨日と比べるとだいぶ静かである。しかしその沈黙は昨日の浴場での苦しい沈黙ではなく、柔らかい、優しい沈黙だった。そして彼女は僕の背中にもたれかかって眠り始めてしまった。
「あれ、もうお昼ですか。私ずいぶん眠っていたんですね」
彼女はあくびをしながら目を覚ました。時刻はすでに正午を過ぎていた。
「やっと起きたんだね、ずいぶんお休みだったね」
彼女は約三時間の間自転車の荷台で寝ていた。よくそんな場所で三時間も眠れるものだ。僕は彼女が寝ていた三時間も合わせて五時間自転車をこいで、七瀬町にたどり着いた。国道を走る僕たちの横を池袋ナンバーの車が通り過ぎていった。
「もうすぐ東京大都なんですね」
二郎橋近くの河原に差し掛かった時彼女はつぶやいた。県境にある東神市の入り口を示す『東神市』の看板が隣に見えた。
思ったよりも僕が自転車をこぐペースは速かった。この十四時という時間に東神市に到着してしまったのだ。このペースだと明日の夕方には大都市につくだろう。たった二日、たった二日でも僕は彼女といろいろなことを話した。そして彼女の色々な面を知った。そして今朝気付いたことがある。僕は彼女に恋をしてしまったのだ。彼女から離れたくないという思いがこみ上げようとしていた。しかし彼女は僕の心を読めるくせに、この気持ちだけは分かっているようには思えない。そういう思いがこみ上げるのに僕は自転車のギアを上げて国道に自転車を走らせた。
あと三話で完結します
5/31加筆修正