線路少女は笑わない 6
ここ神七川県には人口が集中する都市が二つある。一つはプロ野球の本拠地を持つ県庁所在地である横濱市。そしてもう一つは今僕たちが向っている相川市。ここは古来より武家の町で戦国時代に戦国大名が相川城下町を築いて以来楽市が開かれ商人の町となった。今も武家屋敷などの名残が残る味わい深い街だ。
「やけに詳しいですね、将来ナレーターにでもなったらどうですか」
少女は自転車の荷台から僕を小突いた。
相川大橋を渡ったところで日が暮れてきた。思えば都村を発って約十時間になる。少女の顔にも疲れが見えてきた。
「もう時間も遅いし宿ででも休もうか」
そう言うと荷台の少女は疲れで垂れていた頭を上げた。
「宿なんてとってあるんですか?」
「うん、昨日のうちにね、調べておいたんだ」
実は何時、何処に着くかを予め計算しておいたのだ。そしてその結果から周辺の宿を調べて片っ端から連絡したのだ。さすがに中学生一人で泊まれる宿はなかなか無かったけれども、そんな中で一つの名前が目についた。それは中学の友人横田一樹の父一鉄が経営する民宿「横之宿」であった。
「隼人君って意外と行動派だったんですね。見直しました」
「今までどういう風に思ってたのさ」
僕たちはこんなしがないことを駄弁りながら宿のある目指すべき場所相川市松浦町へと自転車を走らせた。
「へいらっしゃい、大将!」
僕たちが「横之宿」に到着すると、待ってましたと言わんばかりにこの宿の若大将横田一樹が飛び出してきた。中学の友人とは言ったものの、彼は一年生のころに都村からこの相川市に引っ越していてもう同じ学校には通っていない。小さいころから彼は同級生の中では一番熱い男だったが、新天地でもその性格は変わっていないようだ。白いランニングシャツとサイズの大きい作業ズボンを身に着け、腰には白い手ぬぐい、額には使い込まれたねじり鉢巻き。いったい誰がこの男を民宿「横之宿」の跡継ぎ息子と思おうか。実際僕にも彼は鳶職のおっさんにしか見えない。
「にしても大将、一人旅とは珍しいねえ、自我にでも目覚めたか」
「いや、なんとなくだけど」
「なんだよ大将冷めてるな、もっと熱くなれよ!」
冷めてる、昔からよく言われる言葉だ。一樹とはかれこれ十年ぐらいの付き合いになるが、そのころからずっと言われている。彼と僕はこの通り正反対の性格だけれども、この長い年月を仲良く過ごせたというのは不思議なことである。
「にしてもこの時期に旅とはどうしたんだ。あえて理由は聞かねえが学校はどうしたんだ。夏休みはまだだろ」
僕と一樹が民宿の前で話していると、館の奥から彼の父である一鉄おじさんが現れた。こちらもまた一樹と同じ格好をしている。
「ちょっと季節外れですけどインフルエンザとウソついて休んできました。インフルエンザは一週間休まないといけないので」
僕はおじさんにニッコリと微笑んだ。でもそれは黒い笑顔だ。
「それじゃあ医者の診断書とかいるんじゃないのか。それに親御さんはどうした。家に電話が来るんじゃないか?」
「知り合いに医者がいるので無理言って書いてもらいました、怪しまれましたけどね。親は一応旅行に行ってることになってます。もちろんこれも嘘ですけど」
「さすが隼ちゃん黒いねえ」
そう言うとおじさんと一樹は館の中に戻っていった。
「隼人君って結構腹黒いんですね」
最後に荷台の少女にも毒づかれてしまった。我ながら今回の手法はひどいと思う。次はもっとうまくやらなければならないな、僕は苦々しく思いながら館に入った。
横之宿、ここは六代続く伝統ある民宿である。江戸時代のころは東海道が近く、大名行列に加わった下級の武士や周辺の住民が宿泊してかなり繁盛してたらしいが今は近くにホテルがあることもあり昔ほどの活気はない。。儲けが少ないせいか古い建物は取り壊され、旧来の趣を残すものは明治時代後期に建てられた別館だけとなってしまった。部屋があまり空いていないらしく、その別館に僕たちは泊まらせてもらうことになった。
「えらく年季入った建物ですね、幽霊とか出ませんよね」
「幽霊サマが何言ってるのさ」
「そういえばそうでした」そういうと彼女はクスッと笑った。そういえばこの少女が笑うのを見たのは初めてかもしれない。それぐらい彼女には感情の起伏が少なかった。
少女の言う通りこの建物は結構古いが、日常的に清掃しているのだろうか、部屋は清潔に保ってある。そうこうしているうちに部屋に一樹が入ってきた。
「大将今日は疲れたろ、風呂でも入ってきたらどうだ。その間に晩飯用意しとく。」
一樹はそれだけ言うと部屋を去った。そういえば朝から夕刻まで自転車を漕いで体は疲れ切っていた。大量にかいた汗は部屋の冷房のせいかすでに干いてしまっていた。
「じゃあ入ってこようかな」
「はい、私もおふろ入りたいです」
僕は少女を伴って本館にある大浴場に向かった。
実はこの宿は大衆浴場も兼ねていて、昔は多くの人々で賑わっていたらしい。江戸時代末期には相模のお殿様も通っていたらしく、土産物として相模御殿饅頭というのが販売されている。そしてこの浴場には一つ大きな特徴がある。それは混浴ということだ。一応混浴を知らない人のために説明しておくと普通の銭湯は「男湯」と「女湯」に分かれている。しかし混浴の場合その区別がない。つまり男女一緒にお風呂に入ることになるのだ。
「横之宿」大浴場の入り口にはただ「湯」とだけ書かれた暖簾がかかっている。
「これは泊まる宿を間違えたかな」
僕はその目の前の光景に思わず苦笑いをこぼした。
「でも早くお風呂入りたいです」
どうやら幽霊にも入浴願望はあるらしい。
「じゃあ一人で入ってくるといいよ」
僕がそういうと彼女は下を向いた。
「でも中に誰もいないのに隼人君がお風呂の前で待ってたら変だと思いませんか?」
困ったことになった。彼女はなぜか僕以外には見えないのだ。つまり僕は誰もいないお風呂で「まだか、まだか」と待っている変な人になってしまう。
「じゃあどうすればいいのさ」
すると彼女はさらに下を向いて申し訳なさそうに小さな声でつぶやいた。
「…一緒に入るしかないと思います」
斯くして僕たちは一緒にお風呂に入ることになった。もちろん普通に入るわけにはいかない。考え抜いた結果なるべく離れて、お互いに背を向けて入浴することになった。
不幸中の幸いにも更衣室だけは男女別だったので、お互いに着替えを見られることはなくて済んだ。
浴場に入るとお互いに見ることもなく体を洗い始めた。もちろん背中を向けたままでだ。
体を洗い終え湯船に入ろうとすると、少女のほうが先に入っていた。その姿を一瞥すると僕は彼女に気付かれまいと湯船の端のほうに腰を下ろした。一瞬だけ目で見えた彼女の肌色の体は、服を着ている間は気にするほどではなかったが、こうやって裸になってみるとかなり細く見える。手足は白く、細く、十四歳の中学生ではなく小学生に見紛う体躯だ。その彼女もまた僕とは反対方向の端にうずくまっているようだった。
僕たちには会話がなかった。当然だ、年ごろの異性と一緒にお風呂に入って何を話せというのだ。実は僕は恋愛経験が全くない。昔から仲の良い女の幼馴染はいるがそのような仲ではない。だからこういう時はどうすればいいのかわからない。そのまま時間だけが無為に過ぎていく。
「あの、何か話しませんか」
彼女が口を開いたのは約十分の沈黙の後だった。この時彼女が切り出さなければ僕たちは何も話さないままだっただろう。それからは会話が弾んだ。今回の旅のこと、学校のこと、村のこと、、互いの家族のこと。そして話は彼女の祖母のことに及んだ。
「おばあちゃんはどんな人なの?」
「はい、おばあちゃんはとても優しかったです。私が男子に苛められたとき、いつも私を助けてくれました。私が喧嘩をした時はいつも私をかばってくれました。いつも私を守ってくれました。おばあちゃんは…。」
彼女の声は震えていた。僕は彼女に辛いことを思い出させてしまった。
「おばあちゃんは私を憶えてますかね」
振り返ると彼女の頬には確かな涙の粒が流れていた。それは彼女が僕と出会って初めて流した涙だった。
「うん、きっと憶えてる、憶えているに決まってる」
そう言うと僕は立ち上がり浴場を後にした。
今回は宿とお風呂編です
お風呂といってもアレなシーンはございませんので悪しからず
5/31加筆修正