Fairy Sense 《星屑の命》
星屑が空から零れ落ちていく。
一晩で道路を占領した綿雪には、古びて外装がところどころ剥がれ落ちたアパートから、赤いラインナップが半分を占めた自動販売機まで、一人分の足跡しか刻んでいない。
その痕跡を踏み締めた男性は、氷点下から三歩進んだ温度の中で、フリースとブーツだけを防寒にしていて、あとは寝巻きにしているジャージのままだ。大学の友人に見られれば、なめていると表現されるが、缶コーヒーを買いにくる程度なら問題ない。もっとも大寒も近づけば、いくら雪国暮らしの長い彼でも、靴下くらいは必要になってくるけれども。
かちゃり、かちゃりと硬貨が投入される音がやけに響くのも、冬の空気が澄んでいるからだろうか。
ごとん、と見た目にそぐわない重たい音を鳴らして落ちてきた無糖の缶コーヒーを拾い上げれば、彼は長い黒髪に隠れた目を鋭くさせる。それから先輩が好むミルクティへ視線を移した。
どう見てもそちらの方が容量が大きい。そのくせ、値段は一緒なのだから、不利だ。暖を取れる時間が圧倒的に少ない。
彼は小さく舌打ちをして、自分を宥めた。どっちにしろ、あんな甘ったるいものは飲めない。何故、人類が絶対不可欠な糖に甘味なんて不愉快な味覚を割り当てたのか、彼には理解出来なかった。
ともあれ、今あるものに文句を言っても仕方ないから、彼はプルタブを開けて、六十度近くまで温められた黒く澄んだ液体を体に流し込む。あの猫舌の先輩は、折角温かい飲料を買っても、冷めるまで待つしかない。
そこに浅はかな優越感を抱いて、すぐにその下らなさを息と一緒に吐き出した。白くたなびく息は、吐き出した小ささを彼が捨て切れていないと思い知らせるように、しばし留まる。
その白さが残る空間に触れるのが嫌なのか、彼は足を踏み出さずに待っていた。
身を引き裂くような冷たい夜風に乗って、やっと彼が吐き出した靄は流されていく。だが、その代償なのか、それとも払ったお釣りなのか、フリースの開いた首元に、天然の硝子細工が入り込んできた。
透明な結晶が、また世界を侵略し始めたのかと、彼は切れ長な目を空へと向けた。予想に反して、そこには名も知らない星座のイルミネーションが点っている。どうやら、さっきの雪は風に流されてきただけらしい。
よく晴れた夜は、冷え込む。
彼が暖房の設定温度を悩み星を眺める様は、それを星に聞いているかのようだった。
そんな悩みの隙に、遠い深海を真似たような空から、光が零れ落ちた。
滑り落ちるその軌跡を、彼は琥珀の瞳で追っていく。
「流れ星か」
そう呟いたのは、流星が消え去った後で、願い事をしてないと気づいたのは、さらにそれから数拍後だった。
「人が死ぬと、体重が三グラム減るらしいわ」
彼が身を竦ませたのは、細く可憐な声と、ミルクティのスチール缶が落ちてくる音と、どちらの不意打ちのせいだっただろうか。
相変わらず妖精のように神出鬼没だった。それを言うと彼女はいつも喜ぶのだが、この時ばかりはそんな皮肉を言うほど彼の思考は働いていなかった。
「こ、こんばんは、明槻先輩……」
思考は凍りついたままでも、なんとか礼を失することを、彼は回避出来た。
首の下を膝まで覆ったポンチョからはみ出た生足を曲げ、ミルクティを取り出した明槻海弥は、夜の海にも似た色をした自分の髪を肩から払いのけつつ、彼を見上げた。
サファイアをはめ込んだような瞳が、こんな夜闇でも煌いて見えるのは、気のせいか、それとも純日本人でありながらにして現れた遺伝子の奇蹟か。それを知る術は彼にはない。
海弥は、一度体を後ろに落として反動をつけて立ち上がる。その背は、彼から見たら余裕で旋毛が見える。ちなみに、彼の身長は日本人男性の平均より少し高い程度だ。
それでも彼を見上げてくる瞳に宿る不思議な威圧感は、それを補って余りある。そこには、彼女と彼が大学の同じ部活で、先輩と後輩という立場であることも加味されてはいるのだろが。
「こんばんは、緋月。こんな時間まで、レポートかしら?」
「ええ、まぁ」
緋月と呼ばれた彼は、曖昧に答えて視線を逸らせた。
まさか、海弥も所属する文芸部の提出作品を、深夜に迎えた締め切りを破って書き上げ、編集長頼みこんで見逃してもらったなどと、悟られる訳にもいかない。
彼女は部長であり、その頭に『鬼の』と『女神の』という装飾が場合によって付け変わるのだから。
「そう。わたしと一緒で、双子座流星群を見に来たのではないのね」
緋月はそもそも、双子座流星群がこんな寒い時期に来るものだということすら知らなかった。
それを伝えると、海弥はやれやれと首を振った。その仕草に、背中まで流れる艶やかな髪が踊る。
「物書きなら、多少の時事くらいは目を向けなさい。多くを知り、感じることでしか、表現の質は磨かれないのよ」
緋月には耳が痛い言葉だった。
理性と感性、理屈と感覚、説明と描写、その両輪が備わってこそ、作品は形作られる。これが海弥の口癖であり、緋月は彼女に感性が足りないと常々指摘されているのだ。
海弥のような、五感に響く文章に憧れてはいるのに、これでは面目も立たない。
海弥は自販機から離れて、降り積もった純白を踏み締めていく。白く滑らかな生足を守るのがスニーカーだけで冷たくないのかと心配になるが、彼女は優雅な足取りで進み、そして空を見上げた。
自販機と次の外灯の光が届かないそこは、きっとよく星が見えることだろう。
緋月からしたら、美しいものを見たいなら鏡を見ればいいんじゃないかと思わなくもないが。
「それで、さっきの話、知っていた?」
さっき、と海弥が指し示した会話が一体どれのことなのかと、緋月は記憶を探る。
そんなふうに、努力しなければならない時点で期待外れだというように、海弥は息を大きく口から追い出して、白く凍らせた。
風に舞った凍れる天使の羽が、海弥のネイビーブルーの髪を飾り、彼女の体を覆うタペストリィ柄のポンチョを衣替えしていく。
「人が死ぬと、体重が三グラム減るらしいわ。もっとも、どれくらい減るかというのと、なにが減るのかというのには、議論の余地があるようだけれど」
そこまで言われて、緋月もやっと思い出した。海弥が始めに口にした言葉だ。
けれどその話がどこにどう繋がるのか、緋月にはイメージ出来ない。
「ところで、相対性理論によって、質量とエネルギーは互換されるわ。それによると、三グラム分のエネルギーというのは、日本の年間発電量の三分の二にもなるのよ」
お気に入りの和歌を諳んじるように、海弥の瑞々しい唇が言葉を紡いでいく。
しかし、緋月には日本の年間発電量すら実感が湧かず、異世界の呪文でも聞いているような気分だ。
「仮に、それが生命の力だとするならば、生きるってものすごいことね。それを魂と表現すると、とても素敵」
うっとりとした声音が、海弥がどれだけ本気でその言葉を表現したのか物語っている。
緩やかに空に吐いた熱の篭った息は、それだけに今週一番の冷え込みでも凍らせるのに苦労しているようだ。白が占める空間が、それまでより遥かに多い。
「流れ星がなにかは、知っているわね?」
空に向けられていた海弥の視線が、緋月のウルフアイズに流される。
挑まれれば真っ直ぐに返るその瞳の色合いが、海弥は堪らなく好きだった。
緋月は当然だと、海弥の方へ歩み出す。冷たい冬の領域へ踏み出す度胸と熱は、缶コーヒーを煽って体に入れた。
軽くスナップを聞かせて横へ放れば、緋月の意図通りに空き缶は自販機に備え付けられたゴミ箱へ吸い込まれていった。
「地球の衛星軌道上にある小惑星が、重力に引かれて落下し、大気の摩擦で燃え尽きる現象ですよね」
「ええ、その通り」
姉が弟を褒めるように、柔らかな鈴の音にも甘美な響きが鳴らされた。
緋月が自分のそばまで辿り着くと、海弥は手を伸ばしてその黒髪を撫でてやった。
一頻り満足すると、また空を眺め始める。
「それは星屑の死とも言えるわ。大気に焼き尽くされて、散っていく命」
「何億年も宇宙に漂っていた小惑星も、散るのは一瞬ですか」
緋月の何気ない呟きに、海弥は笑みを見せた。
どうしようもなく美しく、瞳を奪う、けれど命の危うささえ感じる妖艶な微笑みだ。
きっと、妖精はこんな笑顔で人を自分達の国に連れ去るのだろうと、今更緋月は背筋を冷やし、戦慄した。
「そう。小石ほどの大きさで、人が持ち上げられないほどの重さを誇るあの星の欠片がね、その重みの全てを散らして流れていくの! 夜をほんの一筋、刹那の間だけ切り裂いて走る光の軌跡に、魂の全てを燃やして!」
海弥は両手を合わせて、白く細やかな指を祈るように折り畳んでいる。
上気した頬は、湯上りでもないのに珊瑚色に染まり、サファイアの瞳は輝きを増して流れ星を探し求めている。
風に舞う雪の花びらも、彼女を引き立てようとする舞台演出に思えてきた。
「だからね、緋月。そんな魂の最後の灯火が、願いを叶えるの。素敵だと思わない?」
語尾は跳ね上がっているのに、とても疑問詞が付いているようには聞こえなかった。
恍惚とした彼女の心を、夜風に早く覚ましてほしいと緋月は思っているのだが、彼女の発言を終えてから、ぴたりと止んだままだ。
本当に妖精姫様は、どこまで人間以外のものに愛されているのか、とそこまで思い至ったところで、緋月は考えを改めた。人間以外にではなく、人間を含めた全てにだった。
わざわざ思い返すまでもなく、こんな寒い中に緋月の足を縫い付けるほどに、海弥は何もかもが魅力的だ。
「でも、俺にはあんな短い時間に三回も願い事を繰り返す自信はないですね」
あなたがそうするのを応援は出来ますが、という一言を、緋月はなんとか喉で飲み込むことに成功した。妖精に連れて行かれたら、朝には凍死してしまう。
家に戻り、冷え切った体を温めてから布団に入ろうと、踵を返した緋月だったが、その袖が引かれていた。小さな手には、少しも力が入っていないし、入っていても容易に振りほどけるはずだが、何故かとてつもない拘束力を感じる。
「こんな夜に、わたしを一人にして帰るつもり? 凍死しちゃうかもしれないわ」
「それに関して、俺に出来ることはないと思いますし、氷点下は十度を越えてからが寒いのだという持論を覆していますが?」
残念ながら、緋月はカイロのような暖を取れる文明の利器は持っていないし、それ以前に目の前の妖精は、ポンチョから生足を出しているのだ。フリースを肩に掛ける気にもならない。
そういえば、あの白い羽を纏うようになったタペストリィの中はどうなっているのかと緋月は不思議に思い、すぐに考えるのを止めた。その予想がどちらに傾いても、彼には不利にしかならない。シュレーディンガーの猫は、観測しなければずっと生きている可能性が残るのだ。
「服があればね。見知らぬ男に剥ぎ取られないとも、限らないじゃない?」
こんな寒い日にとか、もう真夜中なのにとか、いろいろな反論が緋月の脳を飛び交った。
しかしそれを口にすれば、目の前のお姫様はこういうだろう。
あなたがわたしの考えを理解出来ないのだから、あなたの想像もよらない行動をする変態の存在も否定できないわよ、と。
どちらにしろ、人間が妖精との騙し合いで勝てるはずもない。
だから、緋月は直球勝負に出る決意をした。つまり、一緒に帰れるのを提案するのだ。
「まぁ、本当のことを言えばね」
けれど、緋月が提案する前に、海弥は夜空の星へ向けて吐息を凍らせた。
星がまた一つ、終わりを告げていった。
何故か、緋月も海弥の言葉につられて空を眺め、それを目撃していた。
「締め切りを破ったのに、何もないのでは他の部員に示しがつかないと思わない」
流星の尾が消えた後にも、星は空で輝いていた。
様々な色合いに歌う星々の存在量は、単純に空気が澄んでいる冬という季節だけでなく、この田舎とも言える土地の空が汚れていないことも教えてくれる。
その数え切れない星の瞬きに、自分の罪が見詰められているように緋月は感じた。遠い星でこれだけの罪悪感が募るのだから、裁判所に呼ばれるような犯罪はけっしてするまいと心に誓える。
その沈黙を、観念したのだと正確に読み取った海弥は、今度は柔らかな微笑みを緋月に向けた。その真っ直ぐに自分を見詰めてくる碧玉の瞳が、どの星よりも美しいと緋月は感じてしまう。
「わたしが、あと十個流れ星を見付けるまで、付き合ってちょうだいね」
その言葉は耳を飛ばして直接緋月の心に絡み付いて、抵抗する気持ちも奪っていった。
酷い魔法だ。他人の心を操作してしまうなんて。
緋月は体の向きを海弥に合わせて、並んで立つ。
「つめたい」
じんわりと、右手が温まるのを緋月は感じた。
それから、海弥の声が遅れて理解を進める。
決め手は、指が撫でるなめらかな手触りだ。
これだけ水分が凍りつき、乾燥している中でも、海弥の手のひらは潤いをなくさないようだ。
緋月は視界に、星が増えてような気がした。
ついでに言えば、冷え性なはずなのに体が熱くなってきている。心臓も壊れて、ペースを乱しているのが分かる。
「ふふ、暖まった?」
いたずらっぽく海弥の声が吐息と一緒に上がってくる。
「気のせいです。明槻先輩の体温が高いだけです」
「そういうことにしておいてあげる」
流星群とはいいながら、星降る夜とはいかないようだ。
こんなに星が見えているのに、空の石ころは人の願いよりも自分の命の方が大事らしい。
早く十個、流れてくれと願えば叶うだろうかと、緋月は必死になって夜空を眺めていた。
その横顔を、小さな妖精が視界に納めて微笑んでいるのにも気付かないで。
Fin
双子座流星群見ましたか?
星の降る夜は、やっぱり幻想的で、少し寒くて待たされるけど、それでも感動しました。
Fairy Senseはこれからたまーに投稿するやもしれません。
この二人、気にっているので。
星の最後の命が叶える願い。あなたなら、なにをお願いしますか?