夜、バスに乗った。
五十年以上前の話である。
夜、友達とバスに乗った。
乗客はまばらだった。
私達は進行方向に向かって左側の乗降口から二つ前の席に並んで座っていた。
私が通路側だった。
一番前の席には、おばさんと若い娘さんが仲良さそうに並んで座っていた。
バスは四車線の道路をゆっくり走っていた。
とある信号で止まった時、乗降口が開いた。
作業着を着た労務者風の男が乗って来た。
バス亭ではない所で乗って来るなんて、変だなと思った。
都会のバス停の間隔は短い。少し歩けばバス停に着く。次のバスにすればいいだけなのに、こんな所で扉を開けさせて乗って来るなんて、非常識な人だなと思った。
乗降口の扉がしまり、信号が変ってバスが発車する。
しばらく走って次のバス停でバスは止まった。
一番前の席にいた若い娘さんが立ち上がって料金を払い、一緒にいたおばさんにとても綺麗な笑顔を向け別れの挨拶をして降りて行った。
濃い緑に黒のストライプの入ったテラッと光る生地で出来たワンピースを着た長めの髪のとても美しい人だった。
それから、乗ったばかりの労務者風の男が料金を払って降りて行った。
今乗ったばかりなのに降りるなんて変だな、と思って男を見ていると、男はバスが今来た道を戻り始めていた。
乗った場所に戻って行くなんてますます変だ。
男の斜め前には、あの美しい娘さんが歩いている。
「今の人、変だったよね。あの女の人をつけて行ったみたい」
友達が慌てて「しっ」と言った。
残ったおばさんが、ぱっと後ろを振り向き、男と娘さんを凝視した。
バスは走り出していた。
次のバス亭についた途端、おばさんはバスを降り、前のバス停に向かって猛ダッシュしていた。スマホのない時代、危機を知らせるには、走るしかなかったのである。
ここからは私の推測だが、男は信号待ちしていたバスの先頭に乗っていた娘さんに目をつけ、強引に乗り込み娘さんが一人になるのを待っていた。
そして、娘さんが一人でバスを降りるのを見て、自分も降りたのではないか。
この後、三人がどうなったのか?
翌日の新聞を見ても、それらしい記事はなかった。
何事もなかったのだと思いたい。
娘さんは男に絡まれたけれど、おばさんが間に合って大事にいたらなかったと思いたい。
或いは、おばさんが娘さんに追い付いたら何事もなくて、「つけて行ったなんて、言わないでくれたら良かったのに」とバスを降りざるを得なくなった私の一言に恨み事を言っておしまいだったのだと思いたい。
真実は五十年以上経った今も、夜の闇の中である。




