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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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走馬灯

作者: 川北 詩歩
掲載日:2026/04/08

 冷たい海水が、容赦なく体温を奪い去っていく。


 原田博樹はらだひろきは、顎まで浸かった波の感触に、ようやく「解放」という名の安堵を覚えた。


 三十三年の人生は、ただただ重荷だった。

 心血を注いだ仕事は成果を上げても「当然」として処理され、家族とはいつしか言葉を失い、友人は利害関係の消失と共に疎遠になった。手元に残ったのは、首を絞めるように雪だるま式に膨らんだ借金の督促状だけだ。


 東京の、あの嘔吐を催すような喧騒を逃れ、夜の湘南へと辿り着いた。

 月明かりに照らされた砂浜に、安物のビジネスシューズを脱ぎ捨てる。打ち寄せる波の音は、母の胎内へ戻れと誘う子守歌のようだった。


――もういい。もう、十分だ。


 一歩、また一歩と、重い足取りで海へ歩みを進める。

 水面が胸を叩き、喉を塞ぎ、やがて視界のすべてを闇色が覆った。肺が圧迫され、生存本能が苦悶を訴える。だが、それ以上に深い場所で、すべてを終わらせられる喜びが、黒い花のように開いた。


 意識が遠のき、泡となって消えていく。

 その時、静止したはずの脳内で、何かが猛烈な勢いで回転し始めた。


 走馬灯。

 死の淵で、脳が生存のヒントを探して過去を検索するという、あの最後の上映会だ。


 だが、博樹の眼裏まなうらに映し出されたのは、温かな家族の食卓でも、初恋の甘酸っぱさでもなかった。

 それは、彼の人生から「悪意」と「屈辱」だけを純粋培養して抽出した、最悪のアーカイブだった。




* * * * * * *



 最初の光景は、一九九四年、初夏の小学校。

 九歳の博樹は、クラスの人気者だった翔太に、自分だけの「宝物」を見せていた。父親が数少ない小遣いを貯めて買ってくれた、メタリックブルーに輝く小さな模型の車。

 あの日、翔太は太陽のような笑顔で「一日だけ、貸してよ」と言った。


 信じ切っていた博樹は、誇らしい気持ちでそれを手渡した。だが翌日、翔太は壊れて無残に歪んだ車を掲げ、クラス中に響き渡る声で笑った。


「見てろよみんな、これ、博樹の宝物なんだってさ! こんな安物のガラクタを大事にしてるなんて、マジで笑えるよな!」


 子供たちの無邪気で残酷な笑い声が、教室の壁に反響する。

 博樹はただ、泥を塗られたような気分で俯くしかなかった。あの瞬間、彼の中で「他者を信じる」という機能が、模型の車と共に粉々に砕け散ったのだ。



 場面は跳び、埃っぽい高校の体育館。

 十七歳の博樹は、インターハイ予選のコートに立っていた。残り三秒。一点差。彼の手から放たれた決勝シュートは、無情にもリングの縁を叩き、あらぬ方向へと弾け飛んだ。

 試合終了のブザーが、死刑宣告のように鳴り響く。


「お前、なんで最後の一本が決められねえんだよ。いつもそうだよな」


 キャプテンが吐き捨てた言葉に、チームメイトたちの冷ややかな視線が突き刺さる。


 博樹は誰よりも練習した。毎日、最後の一人になるまで居残って、手のひらがマメだらけになるまでボールを投げ続けた。だが、結果がすべてを無に帰した。

 走馬灯は、リングに弾かれるボールの軌道を、スローモーションで何度も、何度も、執拗に再生し続けた。



 次に浮かんだのは、五年前の湿った空気が漂うワンルームマンション。

 恋人の美夏が、無機質な音を立ててスーツケースを閉めている。


「博樹君は、悪い人じゃないの。でも……一緒にいても、先が見えないっていうか。物足りないのよ」


 結婚を前提に貯金も始めていた。彼女のために、嫌な上司の顔色も窺いながら残業を重ねてきた。だが、美夏の瞳には、同情の欠片さえなかった。


「私、もっとキラキラした人生が欲しいの。ごめんね」


 後に彼女のSNSを覗いたとき、そこには海外の高級ビーチで、金持ちそうな男と乾杯する彼女の笑顔があった。

 走馬灯は、美夏の背中がドアの向こうに消え、カチリと鍵が閉まる瞬間の音を、脳髄をつんざくような大音量で繰り返した。




 さらに場面は、会社の冷え切った会議室へ。


 去年の冬。三年間、休日も返上して心血を注いだプロジェクトが、経営判断という名の天秤によって、ゴミ捨て場へ放り込まれた。


「君の努力は立派だ。だが、今の会社に必要なのは『結果』なんだよ。わかるね?」


 デスクに積まれた、寝食を忘れて作成した資料の山。それがシュレッダーにかけられ、文字通りの紙屑になるのを、博樹はただ眺めていた。同期たちは要領よく立ち回り、次々と昇進の階段を昇っていく。博樹だけが、暗い地下室に取り残された。



 そして、最後に現れたのは、つい昨日の絶望だ。

 親友だと思っていた俊介に、震える声で借金の肩代わりを乞うた。かつて俊介が失業して路頭に迷いかけた時、自分の生活費を削ってまで助けたのは、自分だったはずだ。


「悪い、博樹。今、俺もキツいんだ。力になれなくて……じゃあな」


 俊介は目を逸らし、逃げるように去った。その数時間後、彼のSNSには、都内の高級ステーキハウスで「最高のディナー!」と笑う彼の写真がアップされていた。


 走馬灯は、俊介のあの薄笑いと、スマホ画面に映る霜降り肉の質感を、交互に、暴力的に映し出した。




* * * * * * *




 海の底。博樹の意識は、墨を流したような闇に溶け始めていた。

 走馬灯は容赦なく、最悪の断片をループさせる。


 なぜ、幸せな瞬間が一つも出てこないのか。


 家族と笑い合ったはずの夏祭りの屋台。

 初めてのボーナスで、自分のために買った腕時計の輝き。

 美夏と過ごした、穏やかで静かな日曜の朝。


――……そんなもの、本当になかったのか……?


 博樹は自問しようとしたが、脳はそれを拒絶した。


 彼の人生は、誰かに踏みつけられ、奪われ、使い捨てられるためにあつらえられた、壮大な「欠陥品」の集成に過ぎなかったのだ。


 子供時代の嘲笑、学生時代のブーイング、恋人の冷たい背中、上司の軽蔑、友の偽りの言葉。

 それらが巨大な渦となり、博樹という存在を飲み込んでいく。


「もういい……消してくれ……」


 博樹は心の中で、最後の吐息と共に叫んだ。

 だが、走馬灯は止まらない。


 最期に映し出されたのは、現在の、冷たい波に漂う自分の虚ろな眼差しだった。

 誰も手を差し伸べず、誰も彼を悼まない。

 博樹の体は、ただの「負の記憶を詰めた器」として、静かに海底の砂に横たわった。


 海はただ、沈黙を持って、彼という名の絶望を抱きしめた。

 泡一つ立たないその暗闇の中で、博樹の走馬灯はようやく、黒い幕を下ろした。



【終】



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