第72話 王太子の静観
王太子宮は、王城の東翼にある。豪奢ではあるが、無駄はない。
執務机の上には、辺境伯領に関する報告書が積まれていた。レオンハルトは、一枚ずつ目を通す。港再稼働。
北方第一便到着。王都関税収入の減少。どれも事実だ。だが、それだけではない。
「……予想より早い」
小さく呟く。宰相は“揺さぶれば折れる”と踏んでいた。あるいは。彼女が戻る、と。レオンハルトは思い出す。
婚約破棄の場。彼はそこにいた。止めることも、庇うこともできた。だが、しなかった。正確には――
しなかったのではない。できなかった。あの場は、既に決まっていた。王家の均衡、貴族派閥の思惑。
彼は“王太子”であっても、まだ“王”ではなかった。結果。彼女は去った。
「戻らない選択をしたか」
報告書を閉じる。港再稼働の設計。損益予測の精度。これは偶然ではない。彼女の仕事だ。戻れば楽だったはずだ。
名誉も、地位も。だが戻らなかった。それは、意地ではない。構造を見た上での選択。
「……愚かではない」
むしろ。国家規模で見れば、理にかなっている。物流を分散させることは、戦時においても有効だ。
中央集権は強い。だが、折れれば一気に崩れる。分散は弱い。だが、持続する。宰相は統制を選ぶ。
彼は、均衡を選ぶ。
「殿下」
側近が入室する。
「宰相より、追加資料です」
レオンハルトは受け取る。
「港再稼働が続けば、王都財政に影響が出ます」
「分かっている」
短く答える。だが、それは本質ではない。問題は財政ではない。辺境が“自立できる”と証明したこと。
それが王都の構造を揺らす。
「辺境伯を呼ぶ」
側近が驚く。
「公の場で、ですか」
「協議という形で」
裁くためではない。対話するため。そして。彼女も来るだろう。久しぶりに会う。個人的感情はない。
未練もない。ただ一つ。あのとき止められなかったこと。それを今、どう扱うか。レオンハルトは窓の外を見る。
王都の塔が並ぶ。
「急ぐな、と言った」
それは宰相への言葉でもある。だが、自分への言葉でもある。
「辺境伯領の……あの令嬢を、どうなさいますか」
側近が、名を出さずに問う。
レオンハルトは答えなかった。
答えられなかった、が正しい。
この王都で彼女の名を最後に口にしたのが誰だったか、思い出せなかったからだ。




