第6話 小さな役割――気づかれないままの評価
翌朝、私は少し早く目が覚めた。
理由は分からない。ただ、目を閉じているのが惜しいような、そんな気分だった。昨日の会話が、胸の奥にまだ残っている。
――信じなくていい。
その言葉は、優しさよりも現実に近くて、だからこそ心に残った。
身支度を終えて廊下に出ると、屋敷はすでに動き始めていた。使用人たちがそれぞれの持ち場へ向かい、挨拶が交わされる。誰も私に指示を出さないし、邪魔者扱いもしない。
だから私は、自然と足が向いた場所へ歩いた。
執務室の前。
扉は閉まっているが、中からは低い声と紙をめくる音が聞こえる。辺境伯が仕事をしているのだろう。
――近づきすぎない。
昨日、自分に言い聞かせたことを思い出し、私は踵を返そうとした。
「レティシア嬢」
背後から声をかけられ、振り返る。
年配の執事だった。昨日案内してくれた人だ。
「何かご用でしょうか?」
「いえ……」
私は一瞬迷ってから、正直に言った。
「ただ、何か困っていることがあればと思って」
執事は、少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから静かに首を振った。
「ご心配なく。ですが……そうですね」
一拍置いて、続ける。
「倉庫の帳簿が古く、整理が追いついていないのです。急ぎではありませんが」
急ぎではない。
その言葉に、なぜか安心した。
「……それでしたら、お手伝いできます」
「よろしいのですか?」
「はい。無理のない範囲で」
執事は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。では、ご案内いたします」
倉庫は屋敷の裏手にあり、保存食や物資が整然と積まれていた。帳簿は確かに古く、書式もまちまちだ。
私は机に向かい、内容を確認しながら、自然と手が動き始めた。
数量の記録、入出庫の流れ、無駄な重複。王都でやってきたことと、何も変わらない。
――違うのは、誰も私を見ていないこと。
評価も、期待も、叱責もない。
ただ、作業が進む。
それが、思った以上に楽だった。
「……これは、次の補給まで持ちますね」
独り言のように呟くと、近くにいた若い使用人が驚いた顔をした。
「え? 本当ですか?」
「ええ。この量なら、無理に追加しなくても」
「助かります……最近、運送路が不安定で」
感謝の言葉を向けられ、私は少しだけ戸惑った。
「いえ、私は……」
“役に立っている”と言ってしまいそうになり、言葉を飲み込む。
それでも、作業は続いた。
昼前には、帳簿の整理がひと段落していた。
「レティシア嬢」
執事が戻ってきて、整理された帳簿を見て、目を細める。
「これは……大変、助かりました」
「いえ。勝手に手を出してしまって」
「いいえ。むしろ、こちらがお願いしたいくらいです」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
でも、それを“居場所”と結びつけないように、私は意識して距離を取った。
――期待しない。
それが、今の私を守る。
その日の午後、執務室の扉が開く。
辺境伯が、帳簿を手にしていた。
「倉庫の整理をしたのは、君か」
責められるのかと思い、背筋が強張る。
「……はい。ご迷惑でしたら」
「いい仕事だ」
短い言葉。
それだけで、胸がぎゅっと締めつけられた。
嬉しいのか、怖いのか、分からない。
「ただし」
続く言葉に、身構える。
「無理はするな」
それだけだった。
評価は一言で終わり、彼は執務室へ戻っていく。
――誇らしげでも、特別でもない。
けれど。
私は、その背中を見送りながら、気づいてしまった。
ここでは、誰かに認められなくても、自然と必要とされている。
声高に言われなくても、役割は生まれる。
その事実が、静かに、心に染みていった。
まだ、信じきれない。
でも。
“気づかれないまま評価される”という形が、こんなにも楽だなんて、知らなかった。
私は、整理された帳簿を閉じ、そっと息を吐いた。
明日も、ここにいられる。
その考えが、ほんの少しだけ、現実味を帯び始めていた。
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