第56話 ならば、ここにいればいい
彼女が「ここにいたい」と言ったとき。
アレクシスは、ほとんど表情を変えなかった。
それは、いつものことだ。
感情を大きく外に出す性格ではない。
だが。
胸の奥で、確かに何かがほどけた。
王都の特使が来た日から、彼はひとつだけ警戒していた。
彼女が、自分の意思よりも、責任を選ぶ可能性。
王都が困っていると知れば。
国家が必要としていると聞けば。
彼女は、自分を後回しにする。
それが分かっていた。
だからこそ、選択を急がせなかった。
条件も出さなかった。
引き止めもしなかった。
囲えば、彼女は窮屈になる。
止めれば、彼女は遠ざかる。
だから。
「会うかどうかは、お前が決めろ」
「急がせるつもりはない」
それだけを伝えた。
そして今日。
彼女は自分の足で執務室に来た。
呼んでいない。
命じてもいない。
ただ、自分で来た。
「ここにいたい、と思っています」
その言葉は、弱くも強くもなかった。
誓いでも、宣言でもない。
だが、迷いではなかった。
アレクシスは理解する。
彼女は、誰かに選ばれたのではない。
自分で選んだのだ。
それが何より重要だった。
「理由は」
問いかけたのは、確認ではない。
彼女自身が、自分の言葉を持っているか確かめたかった。
静かだから。
無理をしなくていいから。
必要とされなくても、いていい場所だから。
その答えを聞いたとき、彼は確信する。
王都は、彼女を理解していなかった。
必要とされることが、彼女の価値だと思っていた。
だが違う。
彼女は、自分を失わない場所を選んだ。
「ならば、ここにいればいい」
それが、最も正しい返答だった。
縛らない。
条件を付けない。
見返りを求めない。
彼女がここにいるのは、彼の庇護ではない。
彼女の意思だ。
それを守るのが、自分の役目だと理解している。
窓の外で、森が揺れている。
静かな風。
王都は撤退した。
だが、いずれまた何かが起きるだろう。
そのときも。
彼女が選べるようにしておく。
それだけだ。
アレクシスは書類に視線を戻す。
だが、文字はすぐには頭に入らない。
ほんのわずかに、口元が緩む。
彼女は、ここを選んだ。
それは勝利ではない。
奪ったわけでもない。
ただ、選ばれた。
その事実が、静かに、確かに胸に残っていた。




