第55話 ここにいたい、と思っています
特使が帰ってから、城館はいつもの静けさを取り戻していた。
慌ただしさも、低い囁き声も消え、森の音だけが残る。
私は、執務室の前で足を止めた。
入る理由はある。
出る理由もない。
けれど今日は、少しだけ違う。
ノックをする。
「入れ」
短い声。
中には、辺境伯アレクシスだけがいた。
机の上に書類はあるが、急ぎの空気はない。
「何かあったか」
問われる。
私は首を振る。
「いえ。ただ……少しだけ、お時間を」
彼はペンを置く。
「座れ」
向かいの椅子に腰を下ろす。
言葉を探す。
王都の条件は、魅力的だったかもしれない。
地位も、名誉も、取り戻せる。
けれど、それを選ばなかった。
その理由を、説明する義務はない。
でも。
伝えたいと思った。
「……私は」
声が少しだけ揺れる。
「ここにいたい、と思っています」
はっきりとした宣言ではない。
“思っています”。
まだ柔らかい形。
けれど、逃げではない。
アレクシスは、しばらく何も言わなかった。
視線は真っ直ぐだ。
止める気も、喜ぶ気配もない。
ただ、受け止めている。
「理由は」
穏やかな問い。
詰問ではない。
私は考える。
「静かだから、でしょうか」
自分でも曖昧だと思う。
「無理をしなくていいから」
少しずつ、言葉が出る。
「必要とされなくても、いていい場所だから」
そこまで言って、ようやく胸の奥が軽くなる。
これが本音だ。
役に立たなくてもいい。
便利でなくてもいい。
それでも、ここにいていい。
それが、何より大きい。
アレクシスは、わずかに目を細める。
「ならば」
短く言う。
「ここにいればいい」
条件はない。
契約もない。
期限もない。
ただ、それだけ。
胸の奥に、静かな熱が広がる。
引き止められたわけではない。
囲われたわけでもない。
でも。
私は、自分で選んだ。
そして、その選択を否定されなかった。
立ち上がり、一礼する。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
淡々とした返答。
けれど、その声はいつもより少しだけ柔らかい。
廊下に出ると、風が頬を撫でた。
私は、ここにいたい。
それを、初めて言葉にした。
理由は、いらない。
でも、今ははっきりしている。
私は、ここを選んだ。




