第5話 弱音――信じられないという告白
辺境伯領での朝は、音が少ない。
鳥の声と、遠くで木が軋む音。王都のように、誰かの機嫌を窺う気配がない。目を覚ましてもしばらく、ここがどこなのか分からなくなるほどだった。
――ああ、そうだ。
私はもう、王都にはいない。
その事実を思い出すたび、胸の奥が少しだけ軽くなる。けれど同時に、別の感情が顔を出す。
不安だ。
ここが優しいからこそ、怖い。
私は身支度を整え、部屋を出た。廊下で使用人とすれ違うと、皆、必要以上に礼をしない。ただ、自然に挨拶をする。それが、まだ慣れない。
「役に立たなければ、ここにはいられない」
そんな考えが、どうしても頭を離れなかった。
だから私は、厨房を手伝おうとして断られ、書庫の整理を申し出て「急ぎではない」と言われ、結局、庭の隅で雑草を抜いていた。
誰にも頼まれていない作業。
それでも、手を動かしていないと落ち着かなかった。
「……何をしている」
低い声に、肩が跳ねる。
振り返ると、辺境伯アレクシスが立っていた。外套は着ていないが、剣は腰にある。巡回の途中だろうか。
「い、いえ……」
咄嗟に言葉が詰まる。
「……手伝えることがないかと、思って」
彼は私の足元に目を落とし、抜かれた雑草と、私の汚れた手袋を見る。
「それは、庭師の仕事だ」
「そう、ですよね……」
胸が、ひくりと縮む。
やっぱり、余計なことだったのだろうか。
私は立ち上がり、土を払った。
「すみません。勝手なことを――」
「責めてはいない」
短い言葉。
それでも、私は言葉を続けてしまった。
「……何か、しなければと思って。ここにいる理由が、私には……」
声が、途中で途切れた。
辺境伯は、少しだけ沈黙したあと、言った。
「ここにいる理由は、存在していることだ」
理解できない答えだった。
「……それでは、いつか不要になります」
思っていた以上に、言葉はするりと出た。
自分でも驚くほど、率直だった。
辺境伯は、私をまっすぐに見た。
「なぜ、そう思う」
「……今までも、そうでしたから」
王都での日々が、脳裏をよぎる。
尽くしても、評価されなかった。役に立っている間だけ、そこにいられた。必要とされなくなった瞬間、切り捨てられた。
だから私は、役割を失うことが怖い。
辺境伯は、すぐには何も言わなかった。
しばらくして、庭の石段に腰を下ろす。
「座れ」
命令ではなく、提案のような声だった。
私は、少し迷ってから、向かいに座った。
「……正直に言います」
喉が、からからに乾く。
「ここに来てから、皆さんが優しいのが……怖いんです」
言ってしまった。
胸の奥に溜めていたものが、少しずつ形になる。
「理由を聞かれないことも、役割を与えられないことも……ありがたいはずなのに。いつか突然、『もういい』と言われる気がして」
辺境伯は、否定しなかった。
ただ、聞いている。
「だから……何かをしなければ、と。役に立たなければ、と」
私は、ぎゅっと手を握った。
「……溺れる前に、先に自分から動いていないと、耐えられないんです」
沈黙が落ちる。
私は、視線を地面に落とした。
重い。空気が、少しだけ。
――言わなければよかった。
そう思った瞬間。
「信じなくていい」
辺境伯の声がした。
私は、顔を上げる。
「……え?」
「今すぐ、ここが安全だと信じなくていい」
彼は、淡々と続けた。
「疑っている間は、疑っていればいい。慣れる必要もない」
慰めでも、説得でもない。
ただ、事実を述べているようだった。
「……それでも、ここにいていいのですか」
震える声で、尋ねる。
辺境伯は、少しだけ考えてから答えた。
「ここにいることと、信じることは別だ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
「君が役に立つかどうかで、居場所は決まらない」
断言でも、約束でもない。
けれど――追い詰められない。
私は、深く息を吐いた。
「……すみません。面倒なことを」
「構わない」
彼は立ち上がり、私に手を差し出した。
「昼になる。戻ろう」
その手を、私は一瞬だけ見つめてから、取った。
強くもなく、引き寄せるでもない。ただ、支える手。
屋敷に戻る途中、私は気づく。
心が、少しだけ静かだ。
信じられるようになったわけではない。
安心したわけでもない。
けれど――追い出されなかった。
弱音を吐いても、否定されなかった。
それだけで、今日は十分だった。
私はまだ、信じられない。
でも。
ここにいることを、今すぐ疑う必要はないのかもしれない。
そんな考えが、胸の奥に、そっと残った。




