第44話 それ以上、踏み込まない
翌日の執務室は、いつもと変わらなかった。
机の上に並ぶ書類。窓から差し込む光。一定の静けさ。
昨日の問いが、まるでなかったかのように。
私は、少しだけ身構えていた。
続きがあるのではないか、と。
「悪くない」と答えたあとに、
「ならば」と何かが続くのではないか、と。
けれど。
「そこは、優先順位を上げる」
辺境伯の声は、いつも通りだった。
「承知しました」
業務の確認だけが、淡々と交わされる。
昨日の話題は、触れられない。
あれは、確認だったのだ。
答えを引き出すための前振りでも、
決断を迫る布石でもない。
ただの、問い。
私は、書類に目を落としながら、小さく息を吐く。
踏み込まれなかった。
それが、こんなにも安心するとは。
王都では、ひとつ答えれば、次があった。
好意を示せば、約束を求められ。
了承すれば、義務が重ねられた。
けれど、ここでは違う。
「悪くない」と言った。
それだけで、終わる。
午後、庭で作業をしている使用人たちの声が聞こえる。
誰かが笑い、誰かが名前を呼ぶ。
私は、その音を遠くに聞きながら歩く。
昨日の問いを思い返す。
居心地が悪いか。
それは、私の感覚を尊重する言葉だった。
答えを強要しない。
未来を縛らない。
ただ、今を確かめる。
夕方、執務室で二人きりになる時間があった。
私は、机の端に立つ。
辺境伯は、書類から目を上げることなく言った。
「昨日の件は、それでいい」
短い一言。
それ以上はない。
私は、頷く。
「はい」
踏み込まない。
深掘りしない。
決意を引き出さない。
その距離が、信頼に変わっていくのを感じる。
部屋を出ると、夕暮れが森を染めていた。
胸の奥が、静かに温かい。
誰かに引き止められたわけではない。
誰かに縛られたわけでもない。
それでも、ここにいることが、少しだけ自然になっている。
踏み込まれなかった。
だから、私は自分で考え続けられる。
それが、今の私には何より大切だった。




