第43話 初めて、聞かれる
夕方の執務室は、いつもより静かだった。
書類は片づき、机の上には必要最低限のものだけが残っている。窓の外では、森が淡い橙色に染まり始めていた。
私は、最後の確認を終え、書類を閉じる。
「以上です」
いつも通りの報告。
辺境伯アレクシスは、しばらく黙ったまま私を見ていた。
視線は穏やかで、探るようなものではない。
けれど。
「……レティシア」
名前を呼ばれた。
静かな声。
重くも、強くもない。ただ、真っ直ぐに。
私は、わずかに息を止める。
「はい」
それ以上は続かない。
彼は少しだけ言葉を探すように視線を落とし、やがて短く言った。
「ここは、居心地が悪いか」
問いは、それだけだった。
王都に戻る気はあるか、とも。
ここに留まるつもりか、とも。
未来の選択を迫る言葉はない。
ただ、“今”について。
居心地。
私は、胸の奥に小さな波が立つのを感じた。
初めて、聞かれた。
決断ではなく、状態を。
私は、視線を少しだけ窓の外へ向ける。
森が揺れている。
光が柔らかい。
ここに来た日のことを思い出す。
何も持たず、何も期待せず、ただ追い出された形で辿り着いた。
あの日の私は、居場所を失っていた。
今は。
「……悪くないです」
それが、正直な言葉だった。
好きだ、とも。
ここにいたい、とも。
まだ、言えない。
でも、悪くない。
辺境伯は、わずかに頷いた。
「そうか」
それだけ。
理由も、補足も、求められない。
沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は重くない。
私は、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
居心地が悪いか、と聞かれた。
それは、私の選択を尊重する問いだった。
決断を迫らない。
未来を縛らない。
ただ、今の感覚を確かめるだけ。
「悪くないです」と言った自分の声が、まだ耳に残っている。
それは、はっきりとした宣言ではない。
でも、嘘ではない。
執務室を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
初めて、聞かれた。
それだけで、何かが少しだけ変わった気がする。
理由は、まだ言葉にできない。
けれど。
私は今日、自分の感覚を、自分の言葉で答えた。
それが、小さくも確かな一歩だった。




