第4話 境界の屋敷――何も求められない場所
馬に揺られながら進む道は、王都の街道とはまるで違っていた。
舗装はされているが、必要最低限。無駄な装飾も、威圧するような門もない。代わりに、遠くまで続く森と、澄んだ空気がある。
辺境伯アレクシス・ヴァルドは、私の少し前を黙って進んでいた。話しかけてくることも、振り返ることもない。けれど、速度は常に私に合わせられている。
気遣いなのだと、後になってから気づいた。
屋敷が見えてきたのは、夕暮れが近づいた頃だった。
城、と呼ぶには小さく、屋敷、と呼ぶには堅牢な建物。石造りで、実用性を優先した形をしている。派手さはないが、手入れが行き届いていることは一目で分かった。
「……思っていたより、静かですね」
ぽつりと零れた私の言葉に、辺境伯は初めて応じた。
「静かな方が、眠れる」
それだけ。
屋敷の門をくぐると、数人の使用人が控えていた。皆、必要以上に私を見ない。好奇の目も、憐れみの目もない。
それが、胸に染みる。
「主がお戻りです」
年配の執事が一礼し、私に視線を向けた。
「こちらは……」
「レティシア・アルヴェイン嬢だ。今日から、この屋敷に滞在する」
“罪人”とも、“客人”とも言わない。
ただ、それだけ。
「承知いたしました」
執事は淡々と頷いた。
「客室の準備は整っております。長旅、お疲れでしょう」
その言葉に、喉の奥が少しだけ詰まった。
疲れていい、と言われた気がしたから。
案内された部屋は、広すぎず、狭すぎない。白い壁に、木の家具。窓からは森が見える。王都のように、誰かに見せるための部屋ではない。
「……素敵ですね」
思わずそう言うと、執事がわずかに目を細めた。
「必要なものがあれば、遠慮なくお申し付けください」
私は首を振る。
「いえ……十分です」
本心だった。
荷物が運び込まれ、私は一人になった。ベッドに腰を下ろすと、体の奥から、どっと疲れが押し寄せる。
それと同時に、奇妙な不安も湧き上がった。
――何も、求められていない。
王都では、常に役割があった。婚約者として、令嬢として、調整役として。ここでは、それがない。
何をすればいいのか、分からない。
ノックの音がした。
「……どうぞ」
扉を開けたのは、辺境伯だった。外套を脱ぎ、剣だけを腰に残している。
「食事の用意ができている。無理なら、部屋に運ばせるが」
選択肢を与えられることに、少し戸惑う。
「……食堂で」
「分かった」
食堂もまた、質素だった。長いテーブルに、温かい料理。豪華ではないが、滋養がありそうな香り。
向かいに座った辺境伯は、食事を始めても、何も言わない。
沈黙が、重くない。
それが、こんなにも楽だなんて。
「……あの」
私が声をかけると、彼は視線だけを向けた。
「ここでは、私は……何をすればいいのでしょうか」
言ってしまってから、後悔した。役に立たなければ、ここにもいられない気がして。
辺境伯は、少し考えるようにナイフを置いた。
「何もしなくていい」
即答だった。
「……え?」
「君は、客だ。いや、滞在者だ。役割は与えない」
胸が、きゅっと縮む。
「……それは、いずれ出て行け、という意味でしょうか」
自分でも、声が小さくなったのが分かった。
辺境伯は、初めてわずかに眉を動かした。
「違う」
短く、はっきりと。
「出て行くかどうかを決めるのは、君だ」
私は、何も言えなかった。
食事の後、部屋に戻ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。森の向こうに、星が見える。
ベッドに横になり、目を閉じる。
胸の奥が、ざわついている。
安心していいのか、まだ分からない。信じていいのかも、分からない。
それでも。
今日は、責められなかった。
疑われなかった。
何者かになれとも、求められなかった。
それだけで、十分だった。
私は、ゆっくりと息を吐く。
――ここで、少しだけ休んでもいい。
そんな考えが浮かんだことに、自分でも驚きながら。
その夜、私は久しぶりに、途中で目を覚まさずに眠った。




