第29話 戻るという選択肢
王都の空気は、どこか落ち着かなかった。
王太子の執務室を出た側近は、廊下を歩きながら小さく息を吐く。命じられた内容は、明確で、そして曖昧だった。
――戻せるなら、戻す。
だが、どうやって。
そして、どの立場で。
公式な召喚はできない。婚約はすでに破棄されている。今さら王都に戻せば、周囲は理由を探り始めるだろう。
だから。
「……非公式、ですね」
側近は、そう呟いた。
まずは情報を集める。
次に、探りを入れる。
そして、“選択肢”として提示する。
それが、王都のやり方だった。
数日後、王都の一部の貴族の間で、控えめな噂が流れ始める。
「辺境伯領が、妙に安定しているらしい」
「誰か、有能な人間がいるのでは?」
「王都に呼び戻す話が出ているとか……」
どれも、断片的で、確証はない。
だが、“戻る”という言葉だけが、先に立って歩いていた。
一方、その頃。
私は、辺境伯領の廊下で、窓の外を眺めていた。
森の向こうに、薄く雲がかかっている。天気が崩れる前の、静かな時間だ。
最近、少しだけ、視線を感じることが増えた気がする。
使用人たちの様子は変わらない。補佐官も、辺境伯も、いつも通りだ。
それでも、どこかで“外”が動き始めている気配がある。
――気のせい、だろうか。
私は、首を振る。
今の私は、何も聞いていない。
何も知らされていない。
だから、考える必要もない。
戻る、という選択肢。
それは、今の私の前には置かれていない。
王都で、誰かがそう考えているとしても。
ここでは、今日も日常が続いている。
午後、書類を整理しながら、ふと思う。
もし、戻れば楽になると言われたら。
以前の私なら、その言葉に縋っていたかもしれない。
楽になる。
役割がある。
必要とされる。
でも。
今の私は、“楽”と引き換えに失うものを知っている。
それを、まだ誰にも説明する必要はない。
ただ、心の中で、静かに線を引くだけだ。
私は書類を閉じ、立ち上がる。
戻るという選択肢は、誰かが用意するものではない。
選ぶのは、私だ。
そのことだけは、はっきりしていた。




