第28話 ずれた後悔
王太子の執務室では、いつもより空気が重かった。
机の上に広げられた書類は、どれも些細なものだ。致命的な問題はない。だが、確認事項が増え、決裁に時間がかかっている。
――こんなはずではなかった。
王太子は、無意識にペンを強く握っていた。
「……以前は、こんなに煩雑ではなかったな」
独り言のような呟きに、側近が一瞬だけ視線を上げる。
「そう、でしょうか」
「そうだ」
王太子は、苛立ちを隠さずに言った。
「報告がまとまっていない。こちらが聞かなければならないことが増えている」
側近は、言葉を選んだ。
「……殿下。以前は、先回りして整理されていた部分が、多かったかと」
その言葉に、王太子の動きが止まる。
先回り。
その言葉は、胸の奥に、わずかな引っかかりを残した。
「……誰が?」
側近は、一瞬だけ沈黙した。
王太子は、その沈黙の意味を、理解してしまう。
「……ああ」
小さく、息を吐いた。
思い出すのは、かつて隣にいた女性の姿だ。書類を整え、指摘をまとめ、必要なことだけを簡潔に伝えてきた。
彼女は、決して前に出なかった。自分の功績を誇ることもなかった。ただ、当たり前のように、場を整えていた。
それが、どれほど助けになっていたのか。
失ってから、ようやく分かる。
「……戻せば、楽になるのか?」
王太子の呟きに、側近は言葉を失った。
「殿下……」
「いや、いい」
王太子は、首を振る。
「人がいなくなったわけではない。能力が消えたわけでもない。ただ……」
ただ、“楽さ”が消えた。
それだけだ。
彼は、そこにいる“人”のことを、考えていない。
「以前は、こちらが考えなくても良かった」
王太子は、苛立ち混じりに言った。
「だが今は、すべて自分で判断しなければならない」
それが、彼にとっての不満だった。
後悔は、ある。
だが、それは失った人間への後悔ではない。
失った“便利さ”への後悔だ。
「……探せ」
王太子は、そう命じた。
「戻せるなら、戻す」
側近は、静かに頭を下げた。
一方、その頃。
私は、辺境伯領の食堂で、静かに夕食を取っていた。
今日の料理は、少し香草が効いている。美味しい、と素直に思える。
誰かが、私を“便利だった”と思っていることなど、知る由もない。
私は、カップを手に取り、温かい飲み物を口にした。
――戻る、という選択肢。
その言葉が、もし差し出されたとしても。
今の私は、それを“楽”だとは思わないだろう。
それを、まだ言葉にする必要はない。
ただ。
王都で生まれた後悔は、私の元には届かない。
ずれたまま。
その距離が、今は私を守っていた。




