第23話 表に出さない判断
視察団が去った翌朝、執務室には静かな時間が流れていた。
机の上には、視察用に使われた報告書と、いくつかの覚え書きが並んでいる。辺境伯アレクシスは、それらに目を通しながら、淡々とペンを走らせていた。
「……今回の視察ですが」
向かいに立つ補佐官が、控えめに切り出す。
「評価は、かなり良好でした。特に、領内の運営について」
「そうか」
短い返答。
驚きも、安堵もない。ただ、想定通りだと言うような声だった。
「一部、質問もありました」
補佐官は続ける。
「“誰が中心になって設計しているのか”と」
アレクシスの手が、一瞬だけ止まった。
それは、想定していた質問だ。むしろ、ここまで直接的になるのは早いとさえ思っていた。
「どう答えた」
「いつも通りです。“特定の担当者はいない”と」
補佐官は、視線を落とす。
「……レティシア嬢の名前を出すべきでは、という声もありました」
功績を明らかにすれば、評価はより明確になる。上からの理解も、今後の交渉も、やりやすくなる。
理屈としては、正しい。
だが。
「出す必要はない」
アレクシスは、即座に言った。
「彼女は、表に出るためにここにいるわけではない」
補佐官は、黙って頷く。
視察団の前に立たせれば、彼女はきちんと役割を果たすだろう。だが、それは同時に、“評価される立場”に置くということだ。
彼女が、どれほど慎重に線を引いているかを、アレクシスは知っている。
「評価は、武器になる」
アレクシスは、低く言った。
「だが同時に、枷にもなる」
名前が出れば、期待が生まれる。次はどうするのか、もっとできるのではないか。そうやって、役割が固定されていく。
彼女は、それを望んでいない。
「……守る、ということですか」
補佐官が尋ねる。
「違う」
アレクシスは首を振った。
「彼女の選択を、奪わないだけだ」
守るという言葉は、主体を奪う。彼女は、そういう扱いを嫌う人間だ。
執務室の窓の外を、一羽の鳥が横切った。
「必要になれば、彼女自身が前に出る」
アレクシスは、そう結論づける。
「それまでは、名前を出さない」
補佐官は、深く一礼した。
「承知しました」
話は、それで終わった。
昼前、私は廊下で補佐官とすれ違った。
「お疲れさまです」
挨拶をすると、彼は少しだけ柔らかく微笑む。
「ええ。昨日の視察の件ですが……」
一瞬、言葉を切る。
私は、何か指摘されるのかと身構えたが、彼は続けなかった。
「……いえ、何でもありません」
それだけ言って、去っていく。
私は、その背中を見送りながら、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
何かが、起きている。
でも、それが何なのかは分からない。
そして、分からないままでいいのだと、どこかで思っている自分がいる。
部屋に戻り、窓を開ける。
視察団が来る前と、何も変わっていない景色。
私は、いつも通りの一日を始める。
名前が出ないまま。
役割を与えられないまま。
それが、今の私には、一番落ち着く形だった。




