第2話 追放前夜――何も残らない部屋で
部屋に戻ると、そこだけ時間が止まっていた。
壁に掛けられた淡い色のタペストリーも、窓辺の刺繍椅子も、机の上に積まれた帳簿も――すべてが、昨日までと同じ顔をしている。まるで、今夜の出来事など最初から存在しなかったかのように。
それが、ひどくおかしかった。
私はゆっくりとドアを閉め、背中を預ける。深呼吸をひとつ。胸の奥が、じんわりと痛む。泣くほど鋭くはない。ただ、鈍く、重い。
――明日の朝、ここを出る。
王太子殿下の言葉は、命令としてではなく、事務的な処理として私に落ちてきた。だからこそ、抗う気力も湧かなかった。
荷物は最低限。
それだけを許されるということは、ここでの生活を“切り捨てろ”という意味だ。思い出も、人間関係も、役割も。
私はクローゼットを開け、服を一着ずつ見ていく。王都仕様のドレス。公務用の落ち着いた色合い。学園時代の少し華やかなもの。
どれも、今の私には不要だ。
手が止まったのは、淡い灰色の外套だった。派手さはなく、でも仕立てがよく、動きやすい。辺境へ行くなら、これでいい。
選ぶ理由が“似合うから”ではなく、“邪魔にならないから”になっていることに、少しだけ苦笑した。
トランクを出し、必要なものを詰めていく。下着、簡単な薬、筆記具。宝石箱は閉じたままにした。あれは、ここに置いていく。
ノックの音がしたのは、その時だった。
「……お嬢様」
控えめな声。聞き慣れた声。
「入って」
ドアが開き、年若い侍女――ミーアが顔を出した。目が赤い。泣いた後だと、一目で分かる。
「失礼します……」
彼女は部屋に入るなり、私の姿を見て、唇を噛んだ。
「どうして……どうして、何も言わなかったんですか……!」
声が震えている。怒りよりも、悔しさの色が濃い。
「お嬢様は、何も悪くありません。皆、分かっているのに……!」
私はミーアに近づき、そっと彼女の肩に手を置いた。
「静かに。誰かに聞かれたら、あなたが困るでしょう」
「でも……!」
「ありがとう」
それだけで、ミーアの目から涙が溢れた。
「……ずっと、お嬢様の背中を見ていました。誰よりも働いて、誰よりも気を遣って……それなのに、あんな……」
私は首を振る。
「いいの。これは、私が選んだ結果よ」
嘘ではない。半分は、本当だ。
私は弁明しないことを選んだ。自分を守るためではなく、これ以上傷つかないために。
「明日、私は辺境へ行くわ」
ミーアが息を呑む。
「辺境伯領……そんな……!」
「大丈夫よ。王都より、きっと空が広いわ」
自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
ミーアは俯き、しばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「……わたし、行きたかったです。お嬢様と一緒に」
その言葉に、胸が少しだけ締めつけられる。
「ありがとう。でも、あなたにはここで生きてほしい。あなたは優しいから」
優しい人ほど、この王都では生きづらい。だからこそ、ここに残ってほしいと思った。
ミーアは何度も首を振りながら、涙を拭った。
「……これ、持っていってください」
差し出されたのは、小さな布袋。中には、乾燥させた薬草と、手縫いの守り袋が入っていた。
「辺境は寒いと聞きました。お体を冷やさないように……」
私は受け取り、指先で袋を握った。温かい。
「大切にするわ」
それだけで、ミーアはまた泣いた。
彼女が部屋を出た後、私は一人になった。外套を畳み、トランクを閉める。音がやけに大きく響く。
部屋を見回す。
ここは、私が“婚約者”として過ごした部屋だ。誰もが羨む立場で、誰にも甘えられなかった場所。
「……空っぽね」
呟くと、不思議と心が軽くなった。
期待しなければ、失望もしない。
王太子殿下がどうなろうと、セシルがどう評価されようと、もう私には関係ない。
私は窓を開け、夜風を吸い込んだ。冷たい空気が肺に入る。
辺境伯。
どんな人なのか、私は知らない。顔も、声も、噂程度しか。冷酷だとか、無口だとか、魔物より怖いとか。
けれど。
“期待しない”という選択をした今の私にとって、それはむしろ都合がいい。
誰かに理解されなくてもいい。評価されなくてもいい。
ただ、静かに生きられる場所があれば。
私は外套を肩に掛け、ベッドに腰を下ろした。
明日は早い。
目を閉じると、久しぶりに夢を見なかった。
それが、少しだけ救いだった。




