第19話 評価されないまま、必要とされる
補佐官は、机の上に置かれた報告書を一枚ずつ見直してから、静かに息を吐いた。
大きな問題はない。致命的な遅れも、損失も出ていない。けれど、いつもより確認が多く、手間がかかっていたのは事実だった。
――昨日だけ、だったな。
そう思い至り、視線を上げる。
向かいに座る辺境伯アレクシスは、黙って書類に目を通している。補佐官が言葉を選んでいるのを、急かす様子はない。
「……昨日は、少しだけ、滞りました」
ようやく、補佐官が口を開いた。
「原因は?」
「人手不足ではありません。手順も変わっていない。ただ……」
言いよどみ、続ける。
「いつも、気づかないうちに整っていた部分が、そのままになっていました」
アレクシスは、顔を上げなかった。
「彼女が、関わらなかったのだな」
断定に近い口調。
補佐官は、驚きもせずに頷いた。
「はい。意図的に距離を取られていたように見えます」
昨日の廊下での様子を、思い出す。声をかけようとして、やめた姿。気づいていないはずがない。それでも、踏み込まなかった。
「……困りましたか?」
補佐官の問いに、アレクシスは一拍置いてから答えた。
「いいや」
短く、はっきりと。
「回ったのなら、それでいい」
「ですが……」
「“楽ではなかった”というだけだ」
それは、評価ではない。
ただの事実だ。
補佐官は、少し考えてから言った。
「彼女に、伝えますか?」
感謝でも、注意でもいい。昨日の出来事を共有すれば、彼女はまた自然に動くだろう。
だが。
「伝える必要はない」
アレクシスは、即座に否定した。
「知らせれば、彼女は“必要とされている”と感じる。それは、今は不要だ」
補佐官は、目を伏せた。
理解できる。彼女は、必要とされることで、自分を縛ってしまう人間だ。
「彼女が関わるかどうかは、彼女が選ぶ」
アレクシスは、そう言って書類を閉じた。
「我々がすべきことは、線を引き続けることだ」
補佐官は、深く頷いた。
「……承知しました」
話は、それで終わった。
廊下に出ると、屋敷はいつも通りの静けさを取り戻している。昨日の小さな混乱は、もう過去のことだ。
補佐官は、ふと中庭を見る。
レティシアが、木陰を歩いている。誰かと話すでもなく、急ぐでもない。いつも通りの様子だ。
――知らないまま、か。
それが、彼女にとって一番いい。
その日の午後。
私は、部屋で書類を整理していた。昨日は距離を取った分、今日は少しだけ目を通す。気づいた点に、また小さな印をつける。
誰にも頼まれていない作業。
それでも、心は落ち着いていた。
昨日のことは、誰からも何も言われていない。
叱責も、感謝もない。
それが、少しだけ不思議で、同時にありがたかった。
――私は、何も変わっていない。
必要とされているかどうかは、分からない。
けれど、ここにいていいかどうかを、誰かの反応で測らなくていい。
それだけで、今日は十分だ。
私は書類を閉じ、窓の外を見る。
森は、相変わらず静かに揺れている。
評価されないまま、必要とされる。
その距離を保てていることが、今の私には、何よりの救いだった。




