第17話 名前のない調整役
屋敷を離れた馬車の中で、商人ギルド代表の男は、しばらく無言だった。
向かいに座る随行員が、遠慮がちに口を開く。
「……ずいぶん、話が早かったですね」
「ああ」
代表は、窓の外に流れる景色を見ながら、短く答えた。
「条件は変わっていない。値切られたわけでもない。こちらが譲ったわけでもない」
それなのに、交渉は終わっていた。
随行員が首を傾げる。
「辺境伯様が、やり手なのでは?」
「違うな」
代表は、即座に否定した。
「確かに無駄がないが、今日は“交渉”そのものが少なかった。こちらが構える前に、話が終わった感じだ」
そう言われて、随行員も思い返す。
提示された条件は、最初から整っていた。想定される懸念点は、すでに説明に含まれていた。質問を挟む余地が、ほとんどなかった。
「……準備が、異様に的確でしたね」
「そうだ」
代表は、小さく息を吐いた。
「誰かが、こちらの動きを読んでいる。だが、それを前に出さない」
それが、気味が悪いのだと、彼は思った。
普通は、準備をした人間が前に出る。功績を示し、次の交渉を有利に進めるために。
だが、今日の場には、それがなかった。
「誰が、まとめているんでしょう」
随行員が尋ねる。
代表は、少し考えてから首を振った。
「分からん」
辺境伯ではない。補佐官でもない。交渉の席で、主導権を握っている人物はいなかった。
にもかかわらず、話は噛み合っていた。
「名前が出ない、というのは……」
「珍しい」
代表は、そう言ってから、少しだけ口元を緩めた。
「だが、悪くない」
随行員は驚いたように目を向ける。
「え?」
「誰がやったか分からない、ということは、こちらが誰かを警戒する必要もないということだ」
力関係を測らずに済む。次の交渉で、構える必要もない。
それは、商人にとっても楽な相手だった。
「……辺境伯領、思っていたより、やりやすいですね」
「そうだな」
代表は頷く。
「妙な色気がない。功を誇る者がいない」
それは、意図して作れるものではない。
「誰かが、裏で調整している。だが、その誰かは、表に出る気がない」
代表は、そう結論づけた。
「次も、同じ条件で来よう。余計な駆け引きは不要だ」
随行員は、大きく頷いた。
馬車が進む。
その背後で、辺境伯領は静かに日常を続けている。
誰に知られるでもなく、誰の名前も挙がらないまま。
一方、屋敷では。
私は、いつも通りの時間を過ごしていた。
交渉が終わったことも、商人たちが何を話しているかも、知らない。書類を棚に戻し、次に見るべき覚え書きを確認しているだけだ。
――特別な一日ではない。
それが、少しだけ不思議だった。
交渉があった日は、王都ではいつも慌ただしかった。結果がどうだったか、誰が評価されるか。空気が変わるのを、肌で感じていた。
ここでは、何も変わらない。
静かで、穏やかで、同じ一日が続いている。
私は、窓の外を一度だけ見てから、視線を戻した。
名前のない調整役が、どこかにいる。
そう思われていることすら、知らないまま。
今日も、私は私のままで、ここにいる。




