第16話 いつも通りだったはずの交渉
応接室の空気は、静かだった。
重厚な机を挟み、向かい合って座るのは商人ギルドの代表と、その随行員。辺境伯領との定期的な取引の確認――形式としては、何度も行われてきた顔合わせだ。
私は、壁際の席に控えていた。
発言する予定はない。書類を整え、必要があれば差し出すだけ。その役割は、最初から決まっていた。
「では、今回の輸送量についてですが」
商人が切り出す。
辺境伯アレクシスは、簡潔に応じた。
「前回と同じ条件だ。ただし、到着日を一日早めたい」
「……可能ではありますが、理由を伺っても?」
私は、無意識に書類に視線を落とした。
理由は、すでに書かれている。森側の街道で補修が入る予定があり、遅れが出る可能性がある。早めに動かした方が、全体の負担が減る。
それは、辺境伯が昨日確認していた内容だ。
「天候と、街道の事情だ」
簡単な説明で、十分だった。
商人は少し考え、それから頷く。
「分かりました。では、その日程で調整します」
交渉は、驚くほど滑らかに進んだ。
条件のすり合わせ。数量の確認。支払いの期日。どれも、特別な譲歩はない。ただ、話が噛み合っている。
私は、必要な箇所に印をつけ、次の書類を準備する。指示は出さない。視線も集めない。
けれど――。
「……話が早いですね」
商人が、ふとそう漏らした。
独り言のような声だったが、室内にいる全員が聞いた。
「え?」
「いえ、失礼。ただ……いつもより、確認が少なく済むといいますか」
辺境伯は、表情を変えない。
「問題がないなら、それでいい」
「ええ、もちろん」
商人は笑って頷いたが、その笑みには、わずかな戸惑いが混じっていた。
――何かが違う。
そう感じているのは、彼だけではないだろう。
交渉が終わり、商人たちが退室した後、室内には静けさが戻った。
私は書類をまとめ、立ち上がる。
「以上です。追加の確認はありません」
「分かった」
辺境伯は短く答えた。
それだけで、会話は終わる。
私は一礼し、部屋を出た。
廊下を歩きながら、胸の奥に小さな違和感が残っている。
――今の交渉、何かしただろうか。
特別な発言も、調整もしていない。事前に整っていただけだ。それだけで、話が早くなった。
それを、自分の手柄だとは思わない。
ただ。
誰かが、楽になった。
その事実だけが、静かに残る。
部屋に戻り、窓を開ける。風が入り、書類の端が揺れた。
私は、それを押さえながら、ふと考える。
――いつも通り、だったはずなのに。
それが「違和感」になるということは。
外から見れば、この領は、少しずつ変わっているのかもしれない。
その中心に、自分がいるとは思わない。
けれど。
何もしていないわけでも、なかったのだろう。
私は書類を棚に収め、静かに息を吐いた。
今日も、役割は与えられていない。
それでも、物事は滞りなく進んでいる。
――それなら、それでいい。
そう思えたこと自体が、少し前の自分とは違っていた。




