第15話 出て行く日を、考えなくなっている
気づいたのは、ほんの些細な瞬間だった。
朝食の席で、紅茶に砂糖を入れるか迷った。いつもなら入れない。けれど、今日は少し甘いものが欲しい気がして、匙を一つ落とした。
――こんなことを考える余裕がある。
その事実に、遅れて胸がざわついた。
以前の私は、朝からずっと「次」のことを考えていた。今日の段取り、誰の機嫌、どこで波風が立つか。甘いか苦いかなど、どうでもいい。必要なのは、間違いなく処理することだけだった。
今は違う。
私は窓の外の森を眺め、湯気の立つカップを両手で包み込む。温かい。それを「温かい」と感じている。
まるで、ここが“日常”みたいだ。
その言葉が脳裏をよぎった瞬間、心臓が小さく跳ねた。
――日常?
私は、自分に問い返す。
ここは仮の場所のはずだった。追放されて、行き場がなくて、押し付けられただけの滞在先。いつか、何かが落ち着いたら出て行く。そう思っていた。
なのに。
最近、出て行く日のことを考えていない。
それに気づいたことが、怖かった。
食堂を出て廊下を歩く。使用人とすれ違い、挨拶を交わす。その一つひとつが自然になっている。自然になることが、いけない気がした。
――慣れてしまったら、失った時に耐えられない。
胸の奥の古い痛みが、顔を出す。
王都でも、最初は慣れた。居場所ができたと思った。役割を積み上げた。いつか、報われると――思ってはいけないと分かっていながら、どこかで期待していた。
そして、切り捨てられた。
だから私は、もう二度と同じことをしたくない。
けれど、ここは王都ではない。
そう分かっていても、身体が先に身構えてしまう。
私は立ち止まり、窓辺に手をついた。森から吹く風が、少しだけ冷たい。
「……何をしているんだろう」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
出て行く日を考えなくなっているのは、悪いことだろうか。ここにいられるなら、それでいいはずなのに。どうして怖いのだろう。
答えは、簡単だった。
私は、ここを失いたくないと思い始めている。
その感情を認めるのが、怖い。
認めた瞬間に、条件が生まれる気がするからだ。私はここにいたい。だから、役に立たなければ。だから、嫌われないように。だから、壊さないように。
そうやって、また自分を縛る。
それが、嫌だった。
昼前、書類を抱えて執務室へ向かった。第10話で渡された未整理案件に、少しずつ印をつけてきたものだ。何かを「直した」わけではない。気づいた点を残しただけ。
扉の前で一度迷い、それからノックする。
「入れ」
辺境伯アレクシスは机に向かっていた。顔を上げ、私を見る。
「どうした」
私は一歩だけ前に出て、書類を机の端に置いた。
「……見ました。気づいた点に印だけ、つけました」
彼は書類に視線を落とし、軽く頁をめくる。すぐに結論を出さないところが、彼らしい。
「直してはいない」
確認するような声。
「はい。勝手に変えるのは違うと思って」
「判断は、正しい」
その言葉に、胸が少しだけ緩む。
彼は書類を戻し、こちらを見た。
「無理はしていないな」
私は、ほんの一瞬だけ迷ってから頷いた。
「……はい」
嘘ではない。今の私は、以前ほど追い詰められていない。
だからこそ、怖い。
言うべきか迷ったが、今日は――区切りにしたかった。
「……辺境伯様」
「何だ」
「私……最近、出て行く日のことを考えていないことに気づきました」
言った瞬間、喉が少し熱くなった。涙ではない。ただ、言葉にしてしまった怖さ。
辺境伯は、驚いた顔をしない。眉も動かさない。いつも通りの目で、ただ見ている。
「それが、嫌か」
短い問い。
私は、言葉を探した。
「嫌、というより……怖いです」
正直に言う。
「慣れてしまったら、失った時に……」
そこまで言って、言葉が詰まった。
辺境伯は、少しだけ沈黙し、やがて淡々と答えた。
「失う前提で暮らすのは、疲れる」
胸に刺さる言葉だった。まるで、私の生活をそのまま言い当てたみたいに。
「だが」
彼は続ける。
「今ここにあるものを、今すぐ捨てる必要もない」
慰めではない。命令でもない。事実の提示。
「君が怖いなら、怖いままでいい。だが、その怖さのせいで、今日を壊すな」
私は、しばらく声が出なかった。
怖いままでいい。
信じなくていい、と似ている。強くなれ、とも言わない。慣れろ、とも言わない。
ただ、今を消さないでいいと言う。
「……分かりました」
ようやく、そう答えた。
執務室を出て廊下を歩く。足音が静かに響く。窓から見える森は、相変わらず揺れている。
胸の奥の怖さは、消えない。
それでも。
今日を壊す必要はない。
私は立ち止まり、深く息を吸った。
そして、ゆっくり吐く。
――今は、ここにいてもいい。
永遠の約束ではない。未来の宣言でもない。ただ、今日一日の許可。
その許可を、自分で出せたことが、何より大きかった。
私は歩き出す。
出て行く日を考えなくなっている自分を、否定しないまま。
怖さを抱えたままでも、ここで息をしていいのだと。
少しだけ、そう思えたから。
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