表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢は、役割を与えられない場所で静かに生きる 〜尽くしても報われなかった私を、理由も聞かずに受け入れてくれる領がありました〜  作者: 東雲透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/30

第15話 出て行く日を、考えなくなっている

 気づいたのは、ほんの些細な瞬間だった。


 朝食の席で、紅茶に砂糖を入れるか迷った。いつもなら入れない。けれど、今日は少し甘いものが欲しい気がして、匙を一つ落とした。


 ――こんなことを考える余裕がある。


 その事実に、遅れて胸がざわついた。


 以前の私は、朝からずっと「次」のことを考えていた。今日の段取り、誰の機嫌、どこで波風が立つか。甘いか苦いかなど、どうでもいい。必要なのは、間違いなく処理することだけだった。


 今は違う。


 私は窓の外の森を眺め、湯気の立つカップを両手で包み込む。温かい。それを「温かい」と感じている。


 まるで、ここが“日常”みたいだ。


 その言葉が脳裏をよぎった瞬間、心臓が小さく跳ねた。


 ――日常?


 私は、自分に問い返す。


 ここは仮の場所のはずだった。追放されて、行き場がなくて、押し付けられただけの滞在先。いつか、何かが落ち着いたら出て行く。そう思っていた。


 なのに。


 最近、出て行く日のことを考えていない。


 それに気づいたことが、怖かった。


 食堂を出て廊下を歩く。使用人とすれ違い、挨拶を交わす。その一つひとつが自然になっている。自然になることが、いけない気がした。


 ――慣れてしまったら、失った時に耐えられない。


 胸の奥の古い痛みが、顔を出す。


 王都でも、最初は慣れた。居場所ができたと思った。役割を積み上げた。いつか、報われると――思ってはいけないと分かっていながら、どこかで期待していた。


 そして、切り捨てられた。


 だから私は、もう二度と同じことをしたくない。


 けれど、ここは王都ではない。


 そう分かっていても、身体が先に身構えてしまう。


 私は立ち止まり、窓辺に手をついた。森から吹く風が、少しだけ冷たい。


「……何をしているんだろう」


 小さく呟いた声は、誰にも届かない。


 出て行く日を考えなくなっているのは、悪いことだろうか。ここにいられるなら、それでいいはずなのに。どうして怖いのだろう。


 答えは、簡単だった。


 私は、ここを失いたくないと思い始めている。


 その感情を認めるのが、怖い。


 認めた瞬間に、条件が生まれる気がするからだ。私はここにいたい。だから、役に立たなければ。だから、嫌われないように。だから、壊さないように。


 そうやって、また自分を縛る。


 それが、嫌だった。


 昼前、書類を抱えて執務室へ向かった。第10話で渡された未整理案件に、少しずつ印をつけてきたものだ。何かを「直した」わけではない。気づいた点を残しただけ。


 扉の前で一度迷い、それからノックする。


「入れ」


 辺境伯アレクシスは机に向かっていた。顔を上げ、私を見る。


「どうした」


 私は一歩だけ前に出て、書類を机の端に置いた。


「……見ました。気づいた点に印だけ、つけました」


 彼は書類に視線を落とし、軽く頁をめくる。すぐに結論を出さないところが、彼らしい。


「直してはいない」


 確認するような声。


「はい。勝手に変えるのは違うと思って」


「判断は、正しい」


 その言葉に、胸が少しだけ緩む。


 彼は書類を戻し、こちらを見た。


「無理はしていないな」


 私は、ほんの一瞬だけ迷ってから頷いた。


「……はい」


 嘘ではない。今の私は、以前ほど追い詰められていない。


 だからこそ、怖い。


 言うべきか迷ったが、今日は――区切りにしたかった。


「……辺境伯様」


「何だ」


「私……最近、出て行く日のことを考えていないことに気づきました」


 言った瞬間、喉が少し熱くなった。涙ではない。ただ、言葉にしてしまった怖さ。


 辺境伯は、驚いた顔をしない。眉も動かさない。いつも通りの目で、ただ見ている。


「それが、嫌か」


 短い問い。


 私は、言葉を探した。


「嫌、というより……怖いです」


 正直に言う。


「慣れてしまったら、失った時に……」


 そこまで言って、言葉が詰まった。


 辺境伯は、少しだけ沈黙し、やがて淡々と答えた。


「失う前提で暮らすのは、疲れる」


 胸に刺さる言葉だった。まるで、私の生活をそのまま言い当てたみたいに。


「だが」


 彼は続ける。


「今ここにあるものを、今すぐ捨てる必要もない」


 慰めではない。命令でもない。事実の提示。


「君が怖いなら、怖いままでいい。だが、その怖さのせいで、今日を壊すな」


 私は、しばらく声が出なかった。


 怖いままでいい。


 信じなくていい、と似ている。強くなれ、とも言わない。慣れろ、とも言わない。


 ただ、今を消さないでいいと言う。


「……分かりました」


 ようやく、そう答えた。


 執務室を出て廊下を歩く。足音が静かに響く。窓から見える森は、相変わらず揺れている。


 胸の奥の怖さは、消えない。


 それでも。


 今日を壊す必要はない。


 私は立ち止まり、深く息を吸った。


 そして、ゆっくり吐く。


 ――今は、ここにいてもいい。


 永遠の約束ではない。未来の宣言でもない。ただ、今日一日の許可。


 その許可を、自分で出せたことが、何より大きかった。


 私は歩き出す。


 出て行く日を考えなくなっている自分を、否定しないまま。


 怖さを抱えたままでも、ここで息をしていいのだと。


 少しだけ、そう思えたから。


本話もお読みいただき、ありがとうございました!


少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、

ブックマーク や 評価 をお願いします。


応援が励みになります!


これからもどうぞよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ