第14話 線を越えない人
執務室の窓から見える森は、昼過ぎの光を受けて静かに揺れていた。
アレクシスは書類に目を通しながら、わずかに眉を動かす。数字でも文面でもない、別の違和感を拾っていた。
――最近、混乱が減っている。
それは偶然ではない。だが、誰かが前に出て動いた形跡もない。報告が増えたわけでも、指示を出した覚えもない。
結果だけが、静かに整っている。
「……不思議なものだな」
独り言のように呟くと、机の向かいに立っていた執事が、小さく頷いた。
「ええ。作業が滞ることが少なくなりました」
「誰がやっている」
即座に名前が挙がらないことは、分かっていた。
「特定の誰か、というより……」
執事は少し言葉を選ぶ。
「気づいた者が、自然に動いているようです」
アレクシスは、ペンを置いた。
それは、仕組みが整った時に起こる現象だ。誰かが上に立ち、引っ張る形ではない。流れが滑らかになった結果、現場が楽になる。
「……線を越えない」
ぽつりと、そう言った。
執事が目を上げる。
「レティシア嬢のことですか」
「他に、思い当たる者はいない」
能力がある人間は多い。だが、能力がある者ほど、前に出たがる。評価を求め、役割を掴み、責任を囲い込む。
彼女は違う。
手を出すべきところと、出さないところを、感覚で知っている。誰も踏み込まない場所に入り込まない。だが、誰も見ない“隙間”には気づく。
そして、そこを埋めても、名を残さない。
「危ういとも言えますが……」
執事がそう言うと、アレクシスは首を振った。
「違う」
短く、はっきりと。
「危ういのは、踏み込みすぎる人間だ。線を分かっている者は、信用できる」
彼女は、役割を欲しがらない。評価を求めない。だからこそ、判断を歪めない。
それは、簡単なことではない。
「……任せるおつもりは?」
「まだだ」
即答だった。
「彼女は、任されたいわけではない。選びたいだけだ」
執事は、少しだけ目を細める。
「見守る、ということですね」
「必要以上にはな」
守るでも、導くでもない。
ただ、線を引き、越えさせないだけ。
アレクシスは、ふと視線を窓の外へ向けた。中庭の一角を、彼女が通り過ぎるのが見える。誰かと話すわけでもなく、急ぐ様子もない。
それでも、場が落ち着いている。
――ああいう人間は、長くは見つからない。
能力よりも、姿勢の問題だ。
アレクシスは、再び書類に視線を戻した。
彼女がここにいる限り、この領は無理なく回るだろう。だが、それは彼女を縛る理由にはならない。
線を越えない人間には、線を越えさせない距離が必要だ。
それが、領主としての判断だった。




