第130話 報いを、必要としない
辺境の朝は、今日も同じ速さで来た。
誰も、急がない。急がなくても、回る。
私は机に向かい、名の出ない仕事を整えている。関所の記録。塩の配分。神殿の割り当て。どれも、私がやったと誰も知らない。
窓を開ける。朝の冷たい空気が頬を撫でた。厨房から、いつもの匂いが流れてくる。焼いたパンと、煮た豆と、薄い塩の匂い。
変わらない、辺境の朝。
変わったことは、何もない。
――ように、見える。
でも、一つだけ変わった。
この国では、もう誰も匿名の後ろに隠れられない。正しい理由で、名を消すことはできない。決めた者には、名がある。積んだ石には、名がある。
それはずいぶんと小さな変化だ。派手なことは、何も起きない。
けれど、たぶんいちばん深いところの綻びが一つ閉じた。
窓の外で、森が揺れている。
私は、思い出す。
尽くしても報われなかった、あの頃のことを。
私はずっと、報われることを待っていた。誰かが、私の尽くしたものに気づいてくれることを。認めてくれることを。それが来なくて、傷ついていた。
でも、今の私は、もう報われることを待っていない。
諦めたのでは、ない。
――報いを、必要としなくなったのだ。
名の出ない仕事を、報われると思わずに、当たり前のようにやる。かつて、それは私の傷だった。誰にも気づかれない、という傷だった。
今は、違う。
それは、私の選んだ生き方だ。
報われるために整えるのではない。整えることが、私の一部だから整える。ただ、それだけ。
執務室の扉が、開く。
アレクシスが書類を手に入ってくる。私の隣に、当たり前のように立つ。
「これは」と、彼が一枚を差し出す。「お前の名がいる」
名を賭ける決裁。この辺境でも、それは始まっていた。
私は受け取り、いちばん下に名を書く。
レティシア・アルヴェイン。
もう、震えない指で。奪われるのを、恐れない手で。
森が、揺れている。
光が、柔らかい。
ここには、私を急かすものが何もない。
そして、これからは。
私を忘れさせるものも、何もない。
――尽くしても報われなかった私は、報いを必要としない私になった。
その続きを、これからゆっくりと覚えていけばいい。
急がなくて、いい。
最後まで、お読みいただき、ありがとうございました。
火遊びには、脚本がありました。
その脚本を書いた者は、名を、残しませんでした。
「誰も負わずに済む」――その空白こそが、この物語の、いちばん深い綻びでした。
レティシアがしたのは、復讐では、ありません。
ただ、因果を、正しく記し、名を、名の場所へ、返すこと。
そして、自分もまた、名を賭ける側に、立つこと。
――この国のかたちは、まだ、途中です。
速さの要る日は、また来る。名を賭けた者が、狙われる日も、来るかもしれない。
辺境を陰で支えた、もっと昔の誰かの話も、まだ、語られていません。
そのときは、また。




