第13話 名前の出ない感謝
朝の食堂は、いつもより少しだけ賑やかだった。
私は壁際の席に座り、静かに紅茶を口に運びながら、その様子を眺めていた。使用人たちがいつもより軽い足取りで動いている。忙しさは変わらないはずなのに、空気が柔らかい。
「最近、朝の確認が楽になりましたね」
「ええ。前は、同じことで何度も戻されていましたから」
小さな声の会話が、耳に入る。
私は、視線を落としたまま聞いていた。
話題にされているのは、ここ数日のことだろう。書類の行き違いが減り、確認にかかる時間が短くなった。誰かが劇的に何かを変えたわけではない。ただ、引っかかりが少なくなった。
「助かります」
「本当に」
感謝の言葉が、自然に交わされる。
けれど。
「……誰のおかげ、というわけでもないのが不思議ですね」
「仕組みが整った、という感じでしょうか」
誰の名前も出ない。
それが、胸の奥にすっと落ちた。
私は、紅茶のカップを置き、そっと息を吐く。
――それでいい。
王都では、功績は必ず名前と結びついていた。評価されるためには、誰がやったかを示さなければならない。そうしなければ、次の居場所が得られなかった。
だから私は、常に名前を背負っていた。
今は違う。
名前が出ないからこそ、安心できる。
食堂を出て廊下を歩いていると、若い使用人が私に気づいて声をかけてきた。
「レティシア様、おはようございます」
「おはようございます」
「……あの、最近、少し働きやすくて」
言いよどむ様子に、私は首を傾げる。
「そうですか?」
「はい。でも……理由は分からなくて」
彼女は照れたように笑った。
「ただ、ありがたいなって」
それ以上は、続かなかった。
私は、微笑んで頷くだけに留める。
「それは、よかったです」
それ以上、言う必要はなかった。
午後、倉庫を通りかかると、補給担当の男性が仲間に言っているのが聞こえた。
「無駄な確認が減ったな」
「助かるよ。余裕ができた」
やはり、誰の名前も出ない。
私は、足を止めずに通り過ぎた。
胸の奥に、静かな波が広がる。
――これで、いい。
評価されないことは、寂しくないと言えば嘘になる。ほんの一瞬、「気づいてほしい」と思う自分もいる。
けれど、それ以上に。
期待されない安心感が、大きかった。
誰かの役に立っても、居場所が条件付きにならない。名前が出ないから、次も同じ働きを求められない。
それは、私にとって救いだった。
夕方、部屋に戻り、窓辺に立つ。
森が、夕日に染まっている。
王都で生きていた頃、私はいつも「次」を考えていた。次の仕事、次の評価、次の立場。
今は、「今日」で終われる。
今日が、穏やかだった。それだけで、十分だ。
名前の出ない感謝は、形に残らない。
けれど。
胸の奥に、確かに残っている。
私は、そっとカーテンを閉めた。
この静けさを、もう少しだけ、味わっていたかった。




