第11話 与えられなかった役割
書類は、思っていたよりも雑然としていた。
執務室で渡された数枚の報告書と覚え書き。それらを部屋に持ち帰り、机の上に並べてみると、内容も書式もばらばらだ。急ぎのものもあれば、しばらく放置されているらしいものもある。
けれど、どれにも共通していることがあった。
――誰の仕事か、書かれていない。
「……これは、役割じゃないのね」
私は小さく呟いた。
辺境伯は、何も任せるとは言わなかった。ただ「見ていい」と言っただけだ。指示も期限もない。失敗しても、成功しても、誰かに評価される前提がない。
つまりこれは――。
やる義務も、やらない責任も、存在しない。
王都では、あり得ない状態だった。
仕事とは、常に責任と結びついていた。担当者がいて、成果があり、評価があり、失敗すれば責められる。だから私は、線を越えないように、過不足のない結果だけを出し続けてきた。
今、目の前にあるのは、その“線”すら引かれていない書類だ。
私は一枚を手に取り、目を通す。
領内の物資輸送に関する覚え書き。数字に大きな間違いはない。ただ、書き方が古い。今の流れに合わせるなら、別の表現の方が分かりやすい。
でも――。
「……直していい、わけじゃない」
誰も、私にそれを頼んでいない。
私はペンを置き、しばらく考えた。
勝手に手を出せば、出しゃばりになる。役割を与えられていないのに、成果を出そうとすれば、期待を生む。期待は、居場所を条件付きにする。
それは、避けたかった。
だから私は、書き直さなかった。
代わりに、余白に小さく印をつける。気づいた点を、箇条書きにするだけ。誰かが見た時に、「ああ、そうか」と思う程度の、最低限の整理。
主張しない形で、情報だけを整える。
それなら――線を越えない。
次の書類も、同じように扱った。直さない。まとめない。ただ、引っかかる部分に、印を残す。
気づけば、時間が過ぎていた。
窓の外が、少し暗くなっている。
「……これで、いいのよね」
誰に聞くでもなく、呟く。
役割を与えられなかったことが、不思議と心を軽くしていた。失敗を恐れなくていい。成果を誇らなくていい。責任を背負い込まなくていい。
やるか、やらないかを、自分で選べる。
それは、王都では一度も許されなかったことだった。
ノックの音がした。
「失礼します」
執事の声だ。
「どうぞ」
扉を開けた執事は、机の上の書類にちらりと目をやったが、何も言わなかった。
「夕食の時間をお知らせに参りました」
「ありがとうございます。すぐに行きます」
彼は一礼し、部屋を出ていく。
問いも、確認も、評価もない。
私は書類をそっと重ね、机の端に寄せた。
――任されなかった。
けれど、それは拒絶ではない。
私が“何者でもない状態”で、ここにいることを許されている証拠だ。
立ち上がり、部屋を出る。
廊下を歩きながら、胸の奥が静かだと気づいた。
何かを成し遂げたわけでもない。役に立った実感もない。それでも、不安は膨らまなかった。
今日は、それで十分だ。
与えられなかった役割を、無理に埋めようとしない。
その選択ができたことを、私は少しだけ誇らしく思っていた。




