第10話 小さな申し出――条件付きの一歩
昼前、執務室の扉の前で、私は一度だけ深呼吸をした。
ここに来てから、何度も前を通った場所だ。けれど、自分から用事を作って訪れるのは初めてだった。
――役職はいらない。
――評価もいらない。
それでも。
何も言わないままでいるのは、逃げだと感じてしまった。
ノックをすると、低い声が返る。
「入れ」
扉を開けると、辺境伯アレクシスは書類に目を落としていた。顔を上げ、私を見る。
「どうした」
問いは簡潔で、余計な含みがない。
私は一歩だけ前に出て、軽く頭を下げた。
「少し、お時間をいただけますでしょうか」
「構わない」
彼はペンを置き、椅子の背にもたれた。それ以上、急かす様子はない。
私は、用意していた言葉を頭の中でなぞる。
――重くならないように。
――期待しているように聞こえないように。
「……こちらに滞在させていただいて、数日が経ちました」
彼は黙って聞いている。
「皆さんに、よくしていただいています。無理も、求められていません」
そこで、一度言葉を切った。
「だからこそ、少しだけ……自分から動いてみたいと思いました」
辺境伯の視線が、ほんのわずかに鋭くなる。けれど、遮られない。
「役職や、正式な立場が欲しいわけではありません」
ここが、一番大事だった。
「期間も、決めていただいて構いません。ただ……迷惑にならない範囲で、何かお手伝いをさせていただけないでしょうか」
言い切った瞬間、胸が小さく痛んだ。
断られるかもしれない。
過剰だと思われるかもしれない。
それでも、私は視線を逸らさなかった。
辺境伯は、すぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
王都なら、この沈黙は「失敗」を意味した。けれど、ここでは違う。考えるための時間だと、分かっている。
「理由は」
やがて、彼が尋ねた。
「……感謝です」
私は、正直に答えた。
「守っていただいていることに。静かに過ごせていることに」
少し、迷ってから続ける。
「それと……いつか、ここを出ることになったとしても、混乱を残したくないからです」
辺境伯は、目を伏せたまま、しばらく何かを考えているようだった。
「評価は、求めないな」
それは質問ではなく、確認だった。
「はい」
「成果が出なくても、文句は言わない」
「言いません」
「途中でやめる可能性がある」
「……それでも構いません」
一つずつ、条件が積み重なる。
私は、そのすべてを受け取った。
「止めはしない」
彼は、最後にそう言った。
「だが、無理だと思ったら、すぐ引け。誰も責めない」
胸の奥が、少しだけ緩む。
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
いつものように、淡々とした声。
「役職は与えない。指示もしない」
彼は立ち上がり、机の端に置かれていた数枚の書類を手に取った。
「だが、これを見ていい」
差し出されたのは、領内の雑多な報告書だった。困りごと、未整理の案件、誰が担当するか決まっていない事項。
「選ぶのは、君だ」
その言葉に、胸が静かに鳴った。
――与えられるのではない。
――自分で選ぶ。
「ありがとうございます」
今度の言葉は、さきほどよりも確かだった。
執務室を出ると、廊下の空気が少し違って感じられた。世界が変わったわけではない。私の立場も、肩書きも同じだ。
けれど。
私は、自分で一歩を選んだ。
それだけで、心が少しだけ前を向く。
期待しない。
依存しない。
ただ、出来ることを、出来る範囲で。
それでいい。
私は手にした書類を胸に抱え、静かに歩き出した。
この一歩が、どこへ繋がるのかは分からない。
それでも。
誰かに押されるのではなく、自分で踏み出したという事実が、今の私には十分だった。




