第1話 婚約破棄――「悪役令嬢」と呼ばれた日
※この物語は、
派手な復讐や即効性のあるざまぁはありません。
誰かの役に立たなくても、
何かを証明しなくても、
それでも生きていていいのだと、
静かに肯定されていく物語です。
ゆっくりとした進行になりますが、
安心してお読みいただければ幸いです。
拍手は、最初から用意されていたみたいに整っていた。
王宮の大広間。春の夜会。天井のシャンデリアが光を落とし、貴族たちの宝石がそれを跳ね返す。香水と甘い酒の匂いの中、音楽だけが空気を丸くしているはずだった。
――その丸い空気を、鋭い刃で割ったのは王太子殿下の声だった。
「レティシア・アルヴェイン。貴様との婚約を、ここに破棄する」
私の名前が呼ばれた瞬間、視線が一斉に突き刺さった。私が何か悪いことをしたと決めつけた、期待に満ちた目。
背筋を伸ばしたまま、私は一歩も動けなかった。
いや、動かなかった。
動けば、その一歩が“悪役令嬢の最後の悪あがき”になると分かっていたからだ。
王太子カイル殿下は、私を見ない。私の隣に立つはずだった人は、私の存在を最初から数に入れていないように、真っ直ぐ前を見据えている。
「そして私は――聖女セシルを、真の婚約者として迎える」
殿下の腕が、白いドレスの少女へと差し伸べられる。
セシル。まだこの国に来て半年。神殿から“聖女”として迎えられた彼女は、いつも泣きそうな目をしている。それが貴族たちには“純真”に映るらしい。
彼女は小さく肩を震わせ、殿下の手を取った。
「……殿下、わ、わたしは……」
言葉は途切れ、代わりに涙が溜まる。ああ、上手だなと思った。泣くことが武器になると知っている人の泣き方。
周囲がざわめく。「聖女様が可哀想」「あの女が虐めていたに違いない」――誰も、確かめようとしない。確かめる必要がないのだ。結論が欲しいだけだから。
王太子殿下は、ようやく私を見た。
「お前は、セシルに対し数々の嫌がらせを行った。学園での侮辱、衣装の破損、侍女への圧力。挙げ句、神殿への寄付金を横領した疑いもある」
寄付金の件は、私が帳簿を整理して不正を潰した“その日”から、誰かに恨まれているのだろうとは思っていた。けれど、それが私の罪として積み上げられるとは。
いや、違う。積み上げたのは――私自身だ。
私が何も言わないから。
私は口を開きかけて、閉じた。
言えばいい。「学園での侮辱なんてしていない」「衣装の破損は私の侍女が証言できる」「寄付金の帳簿はここにある」。言葉はいくらでもある。証拠も、ある。
でも、ここは裁判じゃない。
夜会は娯楽で、噂は料理で、私の沈黙は“スパイス”になる。
何を言っても、私は悪役令嬢だ。彼らはそれを見たくて集まっている。正しさは、拍手より弱い。
私は一度だけ、殿下の目を見た。
昔、彼がまだ少年だった頃。怪我をして泣きそうになっていた彼に、私はハンカチを差し出した。泣くのを堪えた彼が「お前は変だ」と笑った。私が“婚約者”になったのは、その数年後。
ずっと、支えてきた。
公務の段取り。貴族間の調整。学園での殿下の失点のフォロー。神殿との折衝。誰も気づかない地味な仕事を、当たり前のように。
――それが、報われると思ったことは一度もない。
ただ、必要とされていると思いたかっただけ。
「レティシア、弁明はあるか」
殿下の声が響く。
その瞬間、私は気づいてしまった。
殿下は“答え”を求めているのではない。“弁明する私”を見て、正義の側に立つ自分を演出したいだけだと。
だから私は、深く息を吸って、吐いた。
「ございません」
声は震えなかった。自分でも驚くほど、冷たく澄んでいた。
貴族たちがざわつく。「ほら見ろ」「やっぱり」「罪を認めたのだ」――勝手に解釈して、勝手に盛り上がる。
セシルが、小さく首を振った。
「ち、ちがうの……。レティシア様は、そんな……」
その否定が、逆に火をつける。「聖女様、優しすぎる」「だから虐められるんだ」。彼女は“善”で、私は“悪”。それで物語は完成する。
私は、何も言わなかった。
言えば、セシルは“被害者”から“加害者”へと疑われかねない。彼女がどうであれ、今ここで彼女を崩すのは簡単だ。でも、そんなことをしても私の心は戻らない。
殿下が続ける。
「レティシア・アルヴェインは、王都から退去。アルヴェイン家は今後、王宮への出入りを禁じる。なお――」
ここで“なお”が来るなら、最悪の宣告だ。修道院送りか、爵位剥奪か。
私は静かに、指先を握った。
「――お前は、辺境伯領へ送る。今後の処遇は、辺境伯に委ねる」
辺境伯。
その名に、広間が微妙に揺れた。怖がる者と、興味をそそられる者がいる。辺境伯領は国境の最前線。魔物の被害も多く、王都の貴族が好んで近づかない土地だ。
つまり、体のいい厄介払い。
けれど、私は心のどこかで安堵していた。
――王都に残るより、ずっといい。
殿下は最後に、形だけの慈悲を添えるように言った。
「お前の荷物は最低限、整える時間を与える。明朝、出立だ」
そう言って、殿下はセシルの手を取ったまま、私から視線を外した。
この瞬間、私の十数年は“なかったこと”になった。
広間の中心から、私はゆっくりと一歩退く。背中に突き刺さる視線を受けながら、私は礼をした。完璧な令嬢の礼。誰も私を褒めない礼。
歩き出すと、足音がやけに大きく響いた。
廊下に出た瞬間、音楽と笑い声が背中で閉じる。空気が冷たい。王宮の夜は、こんなにも寒かったか。
私は窓辺に立ち、夜の庭園を見下ろした。月が噴水の水面を白く照らしている。あれほど眩しい場所に、私は二度と戻らない。
胸の中が、すうっと空になる。
涙は出なかった。
泣くのは、まだ“期待している人”の特権だ。
私はもう、何も期待していない。
「……終わったのね」
誰にも聞かせない声で呟く。
この国で、私は“悪役令嬢”として記憶されるのだろう。真実がどうであれ、物語はもう出来上がってしまった。
――それでも。
辺境伯領へ送られる。
そこに何があるのか、私は知らない。けれど、少なくとも王都ほど器用に笑えない場所だといい。誤解が少ない場所だといい。私が息をしても許される場所だといい。
その願いが、贅沢だと分かっているからこそ、私は誰にも言わない。
静かに、前だけを見る。
明日から私は、国の端へ行く。
“捨てられた令嬢”として。
そして――まだ知らない。
理由も聞かずに、私を受け入れる男が、すでに国境で待っていることを。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
当面の間は、1日に3話を投稿予定です。
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