第一王子様
翌朝、リックは緊張で胃が痛かった。一晩中アメリアに叩き込まれた貴族令嬢のマナーが、頭の中でごちゃごちゃになっている。歩き方、座り方、お辞儀の角度、ティーカップの持ち方……。
「パンジー様、大丈夫ですか?」
アメリアが心配そうに声をかけてくる。
「ああ……いや、大丈夫だ。大丈夫……」
リックは女声で答えながら、試験会場へと向かった。第一講堂は既に多くの受験生で賑わっている。皆、緊張した面持ちで筆記用具を握りしめていた。
受付で名前を告げると、職員は書類を確認し、リックを小さな面談室へと案内した。
「パンジー・ゲイロード様ですね。こちらへどうぞ」
部屋に入ると、そこには初老の男性教官が一人座っていた。
「ゲイロード侯爵家のお嬢様ですね。お座りください」
リックは昨晩練習した通り、背筋を伸ばして椅子に座る。両膝を揃え、手を膝の上で重ねる。
「では、簡単な質問をいたします。ご家族について教えていただけますか?」
「はい。父はゲイロード侯爵、母は既に他界しております。弟が一人おります」
リックは用意していた答えを淀みなく述べる。
「そうですか。では、こちらに署名をお願いします」
教官は一枚の書類を差し出した。リックは震える手でペンを取り、パンジー・ゲイロードと記入する。
「はい、これで結構です。合格ですよ」
「……え?」
リックの思考が止まった。
「合格です。入学を許可いたします。明日から正式に学園生活が始まりますので、準備をしておいてください」
「あの……筆記試験は? 実技試験は?」
「ああ、それは形式的なものですから。貴族のお嬢様方に、そのような試験を課すわけにはいきません。面談で十分です」
教官は笑顔でそう言った。
リックは呆然としたまま、面談室を後にした。廊下でアメリアと合流し、二人で学園を出る。
「……昨日の俺の特訓……」
リックの声は虚ろだった。一晩中、必死に覚えた貴族の教養。歩き方の練習。お辞儀の角度。全て、無駄だった。
「パンジー様、よかったではありませんか」
アメリアは慰めるように言うが、リックの脱力感は消えない。
宿への帰り道、学園の中庭を通り抜けようとした時だった。
「パンジー!」
突然、背後から声がかかった。聞き覚えのある、若々しい男性の声。
振り返ると、そこには金髪碧眼の美青年が立っていた。王家の紋章を胸に刻んだ制服。間違いない、第一王子ライトだ。
「ラ、ライト様……!」
リックは慌てて女声を作り、深々とお辞儀をする。
「ごきげんよう」
「ごきげんようだなんて水臭いじゃないか。君とは幼い頃からの婚約者同士だろう?」
ライトは屈託のない笑顔で近づいてくる。リックの心臓が跳ね上がる。
「そ、そうでしたわね。お久しぶりでございます」
「久しぶりだね。手紙は読んでくれたかい?」
「て、手紙……?」
「ああ、この一年で十通は送ったよ。君からの返事がなかったから、少し心配していたんだ」
リックは冷や汗をかく。姉パンジーが受け取っていた手紙のことなど、知るはずもない。
「あ、あの……色々と忙しくて……」
「そうか。でも、もう会えたんだ。嬉しいよ、パンジー」
ライトはそう言って、リックの肩に手を置いた。その距離の近さに、リックは硬直する。
「さあ、久しぶりだし、キスくらいさせてくれても……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
リックは咄嗟に身を引く。ライトの手が空を切る。
「え……? パンジー?」
「あ、あの……人前ですし……」
リックは必死に言い訳を考える。だが、その時だった。
「まあ……」
「ライト様とパンジー様……」
周囲から、ひそひそと囁く声が聞こえてきた。見ると、何人もの令嬢たちがこちらを見ている。その視線は、好奇心と羨望、そして少しの嫉妬が混ざったものだった。
「あ、あの、ライト様、私、急用を思い出しましたので、これで……」
リックは逃げるように、その場を後にした。アメリアが慌てて追いかけてくる。
宿に戻ったリックは、部屋の扉を閉めた瞬間、ウィッグを引きちぎるように脱ぎ捨てた。
「ふへー……」
解放感と共に、リックは床に寝転がる。そして、緊張から解放された体が、自然と……。
ぷぅ。
「……はぁ」
リックは荷物の中から、こっそり持ってきた漫画を取り出した。冒険者の活躍を描いた娯楽本だ。これを読んでいる時だけ、自分が男であることを思い出せる。
「リックさ いえパンジー様 淑女となったからにはそのようなおすがたではこまりますねぇと」
部屋の入り口に、アメリアが立っていた。その表情は、珍しく怒気を含んでいる。
「あ……アメリア……」
「床に寝転がり、屁をこき、漫画を読む。これが侯爵令嬢のすることでしょうか」
「だ、だって、もう誰も見てないし……」
「見ていなくても、です。淑女としての自覚を持ってください」
アメリアの説教は、それから一時間続いた。
翌日、学園では新入生の顔合わせ会が開かれた。大広間には、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが集まっている。
リックは、アメリアに用意された淡いピンクのドレスを着て、その輪に加わろうとした。
「あ、あの……」
だが、令嬢たちはリックを一瞥すると、そそくさとその場を離れていく。
「えっなんで俺そんなんで避けられてるの?」
リックは困惑する。次の令嬢グループに近づいても、同じことが起きる。皆、リックを避けるように距離を取る。
「パンジー様……」
アメリアが小声で囁く。
「昨日の、ライト様とのことが広まったのでしょう」
「……まさか」
リックは青ざめる。第一王子の婚約者として、他の令嬢たちから警戒されているのだ。
顔合わせ会は、リックにとって孤独なものとなった。誰も話しかけてこない。誰も近づいてこない。ただ、遠巻きに見られるだけ。
ええっ なぜ入学初日ではぶられるんだぁ
リックは心の中で悪態をつき、そうして、リックの学園生活は、最悪の形で幕を開けた。




