無理な要求
ゲイロード侯爵家の執務室。重厚なマホガニーの書斎机と、壁一面を覆う古びた書物の匂いが漂う部屋で、リック・ゲイロードは父の前に立っていた。窓からは侯爵家の広大な庭園が見渡せ、手入れの行き届いた薔薇が初夏の陽光を浴びて輝いている。
リックは十四歳。侯爵家の次男として生まれ、幼い頃から剣術と魔法の修練に励んできた。その甲斐あって、明日からついに冒険者としてのキャリアをスタートさせる予定だった。E級から始まる冒険者人生。準備は万端だ。新調された剣と軽鎧、十分な旅銀、そして何より、幼い頃から彼を見守ってきたメイド、アメリアが従者として同行する手はずになっていた。アメリアは治癒魔法と剣術の両方に長けており、冒険者パーティの従者としては申し分ない。
しかし、今、父の口から飛び出した言葉は、その全てを覆すものだった。
「あの~~ちちいえパパ上様」
リックは混乱しながらも、必死に言葉を紡ぐ。
「僕って明日から冒険者として街に出て、E級から始めて経験を積むことになってましたよね。そのための剣とか鎧とか旅銀とか準備されてましたよね。ついでに言うと、今はメイドだけどアメリアさんも治癒と剣術が得意だから、従者としてパーティを組むことになってましたし……。えっと、俺の今までの努力は、えっ、どうなるんですか!?」
声が裏返る。十年以上かけて積み重ねてきた修練の日々。朝早くから夜遅くまで、剣を振り、魔法の制御を学び、冒険者としての心構えを叩き込まれてきた。それが全て、今この瞬間に無に帰すというのか。
「というか男がどうやって学園に潜入するんですか。いくら童顔でも無理ですよパパ上」
「うむ」
そこでゲイロード家の現当主、ゲイロード・ディックJrは重い口を開いた。五十を過ぎてなお壮健な体躯を誇る父は、若い頃の冒険で数々の武勲を立て、「英雄公」と呼ばれた祖父の跡を継ぎ、「英雄公二世」として貴族社会で一目置かれる存在だった。その荘厳な佇まいと数々の実績から、皆が彼を英雄公二世と讃えているのだが、口から出た発言には拍子抜けする。
「いやー、父上なぁ。下手したら侯爵家追放されるかもしれんねん。頼むよリック」
突然のえせ西地方言語。父はゲイロード家代々、王都の貴族として育ってきたにも関わらず、なぜか西地方の訛りを使う癖がある。西地方に縁もゆかりもないのに、だ。おそらく若い頃に読んだ西地方の戯曲か何かの影響だろうが、リックには全く理解できない趣味だった。リックの眉間に皺が寄る。イラつく。本当にイラつく。なぜなら父がこの喋り方をする時は、決まって自分とは全く関係ない問題を息子に押し付けようとする時だからだ。
「パンジーが今の王子と結婚しないとなぁ。向こうの王子はパンジーを幼少期に見てから気に入ってるだろ。なぜかパンジー以外の女児には興味を持たないんじゃ。頼むよ、なんとかな。あの王子に嫌われてさぁ、向こうから婚約破棄ってことになれば、あんまり角は立たないと思うんだ」
リックの拳が震える。パンジー・ゲイロード。リックの姉だ。昨日、突然屋敷から姿を消した。捜索隊が出されたが、未だに行方は分からない。そのパンジーは、この国の第一王子の婚約者として選ばれていた。王子が社交界に顔を出した際、パンジーを見初めたのだという。
問題は、パンジーがいないことだ。婚約者が行方不明では、侯爵家の立場が危うい。そして父は、その責任を全く関係ないリックに押し付けようとしている。しかもよりにもよって、縁もゆかりもない西地方の訛りを使って。
「それになぁ、向こうが乗り気だったから、かなりわしの代で援助されてるんですよぉ。頼むよぉ。お前が実はたまにパンジーと入れ替わって、女装の練習させられたり、女言葉の練習をパンジーにされたりしてるの、知ってるんやでぇ」
リックの顔が紅潮する。確かに、姉の代わりに、時折女装して屋敷内を歩き回ることはあった。姉弟でも顔立ちが似ており、化粧と服装さえ整えれば、驚くほど似ている。姉のパンジーは、そんなリックに女言葉の練習をさせては面白がっていた。まさか、それが父にバレていたとは。
だが、それとこれとは話が別だ。父が王家から受けた援助も、姉の失踪も、全てリックには関係ない。なのに父は、全く縁のない西地方言語を使って、まるで他人事のように息子に責任を押し付けようとしている。リックの怒りが頂点に達しようとした、その時。
「それにお前、このお……ええと、このお前、貴族の令嬢さんたちと一つ屋根の下で暮らせるんやでぇ。ええ、めっちゃええとお父さんは思ってるなぁ。お前の母さんだって別のところの貴族で、学園で勉強してたし。もう、あそこはな、そうや、えらい別嬪さんばかりだし。それにな、アメリアちゃんもいるから、ちゃんとサポートしてくれると思うんだよ。折を見たらさぁ、ちゃんと姉のパンジー探してきて、その時いい感じに交代してもらうからさぁ。お願いしますよぉ」
父の言葉は説得というより懇願に近い。そして、その中に紛れ込ませた甘い言葉。トクナーガ王立学園。この国の名門学園で、各国の貴族の子弟たちが集まる社交と教養の場。男女共学だが、寮は男子寮と女子寮に分かれている。そこに、男であるリックが、姉の代わりに女として女子寮に潜入するというのだ。
リックは深いため息をついた。父のえせ西地方言語が耳に障る。縁もゆかりもない訛りを使って、自分とは全く関係ない、父が王家から受けた援助の問題を押し付けてくる。姉が勝手に失踪した問題を、十四歳の息子に丸投げしようとしている。冒険者としての夢は儚く消え、代わりに待っているのは、女装しての学園生活。
イライラが収まらない。父の無責任さに、そして何より全く関係ない西地方言語を使うその態度に、怒りが沸き上がる。しかし、父の必死な様子を見ていると、そして何より「侯爵家追放」という言葉の重みを考えると、完全に断ることもできない。
こうして明日からトクナーガ王立学園に行くことになり、リックはまんざらでもなかった。なぜならリックも出会いには飢えていたのである。女装とはいえ、彼も学園に潜入することになったのだ。
窓の外では、夕陽が侯爵家の庭園を茜色に染め始めていた。明日から始まる




