第1話 女神のペン先と、老後の余白
湯気の立つ鍋を火から下ろした瞬間、ふわりと甘い匂いが広がった。
前なら、朝食の匂いより先にインクと埃と血の気配が鼻を刺していたと思う。聖女の朝は、祈りと書類と緊急案件で始まるものだったから。
けれど今、わたしはエプロンの紐を結び直して、皿を並べている。
たったそれだけのことが、奇跡みたいに落ち着く。
「焦げていませんか」
背後から、淡々とした声。
振り向くとセルジュさんが、仕事用の眼鏡を外しながら立っていた。宰相の執務室にいるときと同じ無駄のない動きなのに、ここでは少しだけ柔らかい。
「大丈夫。ちゃんと見張ってたから」
「確認しました。……香りは問題ありません」
わたしが笑うと、セルジュさんは視線を逸らす。昔はそれが冷たさに見えたけれど、今は照れ隠しだと分かる。
そのままテーブルへ料理を運ぼうとして、ふと、脇の棚に置いた1冊に指が止まった。
世界契約ノート。
黒く塗りつぶしたような案件ログで、ページが重くなるばかりだった、あのノートだ。
何となく開く。
指先に、乾いた紙の感触。――それなのに、視界に入った文字は、黒ではなかった。
「……黒が、薄くなってる」
インクが、薄墨のように淡い。
まだ読めるのに、刺々しさが抜けている。あの頃は、文字そのものが呪いみたいに濃かったのに。
「案件の解決に伴い、記録の負荷も減衰したのでしょう。合理的です」
「合理的って言い方……」
思わず突っ込むと、セルジュさんは咳払いで誤魔化した。
「……落ち着いた、ってことですよ。ね」
「ええ。落ち着きました。だからこそ、次の段階に移れます」
次の段階。
その言葉が、朝の湯気より冷たく響いたのは、わたしだけじゃなかったと思う。
カップに湯を注いだ瞬間、テーブルの木目がふっと揺れた。
波紋みたいに、円を描いて。
「おはよーございます。えーっと、最新の集計ですが」
空気の真ん中から、いつもの軽い声が降ってくる。
振り向くまでもなく分かる。公正契約の女神さまだ。
今日の女神さまは、いつもの白い光の衣のまま、椅子の背にもたれていた。人の家の食卓でくつろぐ神、という絵面には、今でも少し慣れない。
「最近、『聖女過労死案件』のタグがめっきり減りまして。素晴らしい改善。拍手」
「拍手はいいので、侵入の手順を守ってください」
「はいはい。手順、手順。――では次」
女神さまが指を鳴らすと、テーブルの上に白紙が1枚、すとんと落ちた。
いや、白紙じゃない。上部に、端正な罫線と見出しだけがある。
『人生の最終契約書(案)』
わたしは思わず目を瞬いた。
その見出しのくせに、本文欄は、怖いくらい空白だ。余白、余白、余白。
「これ……契約書なんですか」
「そう。老後契約のフォーマット。世界が落ち着いたので、次はあなたたちです」
女神さまはさらっと言う。
世界の命運を左右する条文より、軽い口調で。
「老後、って……」
「遠い未来だと思ってる顔ですね、リディア。人間はそういうところ、可愛い」
「可愛いで済ませないでください」
セルジュさんがわたしの隣に座り、白紙を正面から見つめた。
その横顔には、普段の冷静さの下に、何か固いものが見える。
「女神。これは、私文書扱いですか。それとも世界契約の監査対象ですか」
「良い質問。まずは私文書。だけどね、老後って、世界の基盤なんですよ。人が安心して歳を取れる世界は、契約の勝利なので」
女神さまが羽ペンを取り出す。
そのペン先が、白紙の上で、静かに光った。
その光に、胸の奥がきゅっと縮む。
わたしは契約書の余白が好きだった。逃げ道になるから。誰かを守る穴埋めになるから。
でも今、目の前の余白は違う。
まだ書かれていない未来。その未来が、ちゃんと来ると信じるための白だ。
「余白は、まだ願ってもいい未来のスペースです」
女神さまが言い切る。
その瞬間、白紙が、ただの紙ではなくなった気がした。
「願い、ですか……」
わたしが呟くと、セルジュさんが小さく頷く。
「穴を塞ぐ契約だけでは、人生は運用できません。……本来、契約は願いから始まるべきです」
「それ、あなたが言うと重い」
「自覚はあります」
重い。そう、重い。
でも、重いからこそ、逃げたくなる。
わたしは、これまで何度も世界のための条文を書いてきた。
搾取の神の条項を切り落とし、無限奉仕の抜け道を塞ぎ、命を担保にした契約に2重線を引いた。
けれど、自分たちの人生の終わり方を条文にするなんて、考えたことがなかった。
セルジュさんが深く息を吸う。
そして、まるで会議の冒頭みたいに、淡々と切り出した。
「――まずは、『どちらかが先に倒れたときの条文』から、相談させてください」
空気が止まった。
わたしの手の中のカップだけが、微かに揺れて、湯面が震える。
「……早いですね。あなた、容赦ない」
「予定は入らないものです」
「そこ、真顔で言わないで」
わたしは笑ってみせた。いつもの逃げ方だ。
軽くして、薄めて、今の幸福だけにしがみつく。
でも、セルジュさんの視線は逸れなかった。
真っ直ぐに、わたしの目を見ている。
「業務ではありません。だからこそ、逃げたくない」
「……」
喉が詰まる。
この人は、きっと怖いのだ。わたしが倒れることも、自分が先にいなくなることも。
怖いから、条文にする。手続きに落として、崩れないように支える。
それは支配じゃない。
わたしを閉じ込めるためじゃない。
守り方を知っている人の、必死な優しさだ。
「……分かりました」
わたしは、ちゃんと息をして頷いた。
「先に倒れる予定、まだ入れてませんけどね」
「予定は――」
「もういいです、その台詞」
女神さまがくすっと笑う。
「いいですねえ。夫婦の老後案件、最初から死別条項。運用が破綻しません」
「その褒め方もどうかと思います」
「褒めてるんだってば」
羽ペンが、白紙の上へ降りる。
ペン先の光が、静かに重くなる。
その瞬間、余白の端に、薄い罫線が1本だけ増えた。
わたしは瞬きをした。見間違いかと思って、もう1度見た。
増えている。
確かに、増えている。
「……女神さま。これ、最初からありました?」
「え? いや、あなたが今、言葉にしたから出たんじゃない?」
「言葉にした、って……」
セルジュさんも白紙を覗き込み、眉をわずかに寄せた。
「老後契約は、ただの夫婦の紙ではない、ということですか」
「さあ。世界契約ノートのインクが薄墨になったのに、ペン先が光るなんて。変ですねえ」
女神さまは笑っているのに、目だけが真剣だった。
わたしは白紙の余白を見つめた。
まだ書かれていない未来。
書けば、守れるかもしれない未来。
そして、書いた瞬間に――世界のどこかの何かが、こちらを見返してくる気配がした。
ここまでお読みいただきありがとうございます。第4部は『世界の後』を生きる2人の、静かで危険な契約から始まります。余白に最初に書かれる条文は何か――次話へ。面白かったらブクマ&広告下の☆☆☆☆☆評価で背中を押して頂けると嬉しいです。




