第30話 世界契約の余白に
『世界契約ノート更新。 ……なお、最終ページは——「以下、余白」。』
会議殿の天井は、まだ淡く光っていた。
けれど円卓は畳まれ、椅子には白い布が掛けられ、神々の席札だけが風もないのに静かに揺れている。
世界契約の写本が、山になっていた。
紙が多い。重い。神聖なのに、完全に物理だ。
「これ、全部……世界に配るんですか……」
ティオが両手で束を抱え、顔色を失っている。
彼の肩から、羽根ペンが1本こぼれ落ちそうになった。
「配るよ。守るために」
言い切った私の声が、空っぽの会議殿に吸い込まれる。
少し前まで、ここは怒鳴り声と嘲笑と、神の気配で息が詰まる場所だった。
今は、片付けの音だけがする。
「守るために配る……って、語感が強いですね」
イルダが書類の端を揃えながら、真顔で呟いた。
揃え方が几帳面すぎて、紙が気の毒なくらいきっちりしている。
「条文が強い日だったんだよ。今日は」
「まだ強いです。紙の角で指を切りました。これは危険物です」
「危険物扱い、正しい気がします……」
ティオが泣きそうな声で頷く。
私は世界契約ノートを開いた。
黒々としていたはずのインクが、いくつか薄墨みたいに落ち着いている。
タグ欄の「過労死案件」が、ぽつぽつ消えているのを見て、胸の奥がくすぐったくなった。
(……減ったんだ)
減った。世界が、ほんの少しだけ呼吸できるようになった。
ノートの端が、ちかちか光った。
女神様の管理者ログが開く合図だ。
『管理者注記:最近、聖女過労死案件の速報がめっきり減りました。
代わりに、条文オタク過熱案件が増えました。誰のせいですか。』
「私じゃありません」
反射で否定してから、イルダと目が合う。
彼女は咳払い1つで視線を逸らし、紙を叩いて続きを促した。
全力で自白している。
「……結論。保管先と搬送手順を確定します」
セルジュさんの声が、背後から落ちた。
振り返ると、彼は誰よりも疲れているはずなのに、いつもの平然とした顔で荷札を書いている。
「各国の写本庫。監査会の控え。神殿の閲覧室。——それから」
彼が私を見た。
見て、すぐに目線を外す。私の背後の空席を、まだ守っているみたいに。
「あなたの分です」
「私の分?」
「あなたが持つべきものです。……ただし」
セルジュさんは一瞬だけ間を置いた。
「本日の議事は終了です。帰ります」
「え、まだ片付け……」
「帰ります」
命令形に聞こえた。いや、命令形だった。
「……命令形に聞こえます」
「命令ではなく、義務です」
そう言い切ってから、セルジュさんはほんの少しだけ口元を固くした。
言い方を後悔している沈黙だ。たぶん。
次の瞬間、外套が私の肩に落ちた。
会議殿の冷たい空気と、私の体温の間に、温かい壁ができる。
「……最初から用意してました?」
「気温と日没時刻は予測できます」
「予測できるの、そこじゃないです」
イルダが紙束を持ち上げながら、淡々と宣言した。
「行け。帰れ。ここは私が締める。未練があるなら条文で残せ」
「未練は……」
私は言いかけて、世界契約ノートの最後のページを見た。
大きく空いた白。意図された余白。
未練じゃない。
続きの席だ。
◇◇◇
会議殿を出た瞬間、音が消えた。
扉の向こうに、世界のざわめきが薄い膜みたいに隔てられる。
夕暮れの王都は、まだ祝祭の残り香を抱えている。
契約大橋の石畳には、紙吹雪が少しだけ残っていて、でも第1部のあの日みたいにべったり貼りついてはいない。
誰かがもう掃き終えたのだと思う。
橋の上を歩く。
並んでいるのに、セルジュさんは半歩前に出ない。
今日は、ちゃんと隣だ。
「最初も、この橋でしたね」
私が言うと、セルジュさんは頷いた。
「あなたが『所有物ではない』と言った日です」
覚えてるのがずるい。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「そのあと、私は倒れました」
「倒れていません。倒れる前に支えました」
「言い方が業務報告なんですよ」
「業務です」
「私情でしょう」
セルジュさんは、答えなかった。
代わりに、外套の端を指で軽く押さえた。
風が吹いても、私が寒くならない位置。
それだけで、言葉が余る。
「……帰っていいんですね」
ぽろっと落ちた。
自分で言って、自分で驚く。ずっと「帰る」は、仕事が終わった人の権利だと思っていた。
「帰ってください」
「……命令形」
「義務です」
またそれだ。
でも今回は、笑ってしまった。
「私、守る側の人間だと思ってました」
「あなたは守る側です。だからこそ、守られるべきです」
淡々と言い切るのに、手だけが少し強くなる。
私の袖を握る指先が、確かに独占欲の形をしているのに、怖くない。
橋の向こうに、大神殿の灯が見える。
帰る場所がある、と初めて思えた。
◇◇◇
官舎の机に、世界契約ノートを置く。
湯を沸かし、ティーカップを並べる。いつもの手順。いつもの夜。
なのに、指先が震える。
「……世界の終わりみたいな会議をして、今はお茶です」
「順当です」
「順当……?」
「生き残った者は、水を飲むべきです」
セルジュさんの理屈は、だいたい優しい。
ノートの最終ページを開くと、白い余白が目に刺さった。
そこに書き足すのが怖い。書かなければ、もっと怖い。
私は、羽ペンのケースを開けた。
女神様から預かった羽。今日は光らない。静かだ。
でも、握るとちゃんと重い。
「……私が書いていいんでしょうか」
「あなたが書くべきです」
「また義務」
「はい」
即答。逃げ道なし。
私は息を吸い、ペン先を紙に触れさせた。
インクがにじむ。その瞬間だけ、会議殿の空気が少しだけ戻ってくる。
条文を書く。世界を動かすのは、派手な奇跡じゃない。
乾くまでの時間と、読まれる回数と、守られる人の数だ。
書き終えた一行を、セルジュさんが読み上げる。
「世界契約の定期見直しは、人間側の世界契約監査会が主導すること」
その声が、家の中で響くのが不思議だった。
世界規模の言葉が、湯気の立つ机の上に落ちて、私たちの日常に馴染んでいく。
ノートの端が、また控えめに光った。
『管理者ログ:権限委譲、確認。
神が主役の時代が終わるのではありません。
人間が主役の時代が始まるだけです。……胃が痛いですね。』
「胃が痛いのは、神様もなんですね」
『痛いです。あと、帰宅優先義務の運用が強すぎます。誰のせいですか。』
私はセルジュさんを見る。
彼は真顔でカップを差し出し、少しだけ目を伏せた。
「……反省します」
反省するポイントが違う気もするけど、今日はそれでいい。
私は白い余白を見つめた。
終わった、じゃない。
終わっていない。続けられる余白だ。
羽ペンを置く。
最後のページの下に、書かれている言葉だけが、静かに残る。
以下、余白
ここまでお読みくださりありがとうございました。世界契約の余白に、2人の小さな日常が書き足されていく——そんな続きを届けます。面白かった、続きが気になったと思って頂けたら、ブックマーク&広告下の☆☆☆☆☆評価で応援してもらえると励みになります。次話、甘い「帰る場所」を。




