第9話 女神と深夜の条文会議(1)
終電もタイムカードもない世界で、私の次の夜は、静かな足音から始まった。
《深夜の泉行き、単独残業コースですね》
(残業というなら、手当の条文も用意してください)
《それを考えるための会議ですよ。ここから逃げる契約の、0回目打ち合わせ》
《ようこそ、深夜の条文会議会場へ》
「ずいぶん本格的な会議仕様ですね」
《本日は残業面談拡大版ですから。議題は1件、ここからどう逃げるか》
逃げる、という単語に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
見習い聖女が倒れた夜。白い手が床に落ちた音。医師の「よくあることですよ」という声。誰も悪意を持っていないのに、誰も止めてくれなかった現場。
(もう、誰かが倒れるのを見たくない)
前の世界で口にした言葉が、また喉の奥で形になる。
《座ってください。身体を冷やすのは、契約的にもよくありません》
「契約的に、ですか」
《聖女が風邪を引くと、ログが荒れますからね》
私は苦笑しながらマントを整え、石のベンチに腰を下ろした。冷たさが伝わってきたところで、泉から吹く光の風が少しだけ和らげてくれる。
「それで、具体的には何を」
《まずは状況整理から》
女神様が指先を弾いた。水面に輪が広がり、その中心から薄い板のような光がふわりと浮かび上がる。
1枚、2枚、3枚。
光の書類が、泉の上に並んだ。
「……契約書」
《はい。現在、あなたを主に縛っている契約を、ざっとまとめてみました》
左端には「聖女奉仕契約」。中央には「公正契約大神殿 聖職者労働規程」。右端には「アルシオン王国 王太子婚約契約書の写し」。
見慣れたタイトルが並んだだけで、胃が重くなる。条文が細かい字でぎっしり並んでいる。そのレイアウトは、前の世界で読み続けた契約書とほとんど同じだった。
《だいたい、この3枚であなたの現在の生活は説明できます》
「人生を3枚でまとめないでください」
《では補遺として、見習い聖女たちの非公式奉仕規程と聖女様は無限に頑張れるはず条文も》
「そういう非公式条文が1番危ないんです」
《そこも含めて、順番に見ていきましょう。まずは聖女奉仕契約から》
左端の書類が拡大され、特定の条文が赤い光で縁取られる。
「聖女は、可能な範囲で昼夜を問わず祈祷および奉仕活動に従事するものとする」
幹部会議で何度も復唱させられた文言。口にしただけで胸の奥がひやりとする。
(可能な範囲でって、誰の判断なんだろう)
前の世界で読んだ「裁量労働制について」の見出しが、頭の隅で光る。終電を逃した夜、タイムカードの前で苦笑した自分の姿までいっしょに浮かんだ。
《便利な言葉ですよね、可能な範囲。実際には上限不明とほぼ同じ意味です》
「その翻訳、もっと早くください」
《次の条文も》
別のひと文が浮かび上がる。
「聖女は疲労を理由に祝福を拒否してはならない」
文字を追っただけで、雪の広場で倒れた見習い聖女の顔がよぎった。
《この2行があれば、休めない聖女の完成です。大変効率的》
「効率って言わないでください」
吐いた息が白く揺れる。世界が変わっても、紙の上の言葉は同じ顔で迫ってくる。
《奉仕契約だけなら、まだ修正しやすかったのですが》
女神様が中央の書類に視線を移す。聖職者労働規程の文字列が、次々と光った。
《こちらは神殿側の就業規程。奉仕は感謝をもって行われるものとし、数値による上限を定めない》
「それ、前の世界で読んだ『自己研鑽は労働時間に含みません』と同じ匂いがします」
《はい。好きでやっているなら時間に数えなくてよいという魔法の考え方》
泉の水面に、前の会社の就業規則の表紙が小さく映る。タイトルはぼやけているのに、「裁量」「自己申告」といった単語だけが妙にはっきり読めた。
「……前の会社の就業規則」
《便利だったので、参考資料として取り寄せました》
「人のブラック経歴を資料扱いしないでください」
光の画面の上で、前世と今世の紙が並び、似た言葉同士が線で結ばれていく。
「裁量」⇔「奉仕」
「会社の発展のために」⇔「神と国のために」
(世界が変わっても、怖さから始まる契約は、同じ顔で迫ってくる)
《そして最後が、こちら》
右端の書類が水面いっぱいに広がる。王太子との婚約契約書だ。礼儀正しい文体で整えられている分、読み進めるほど胸の冷え方が静かになる。
「聖女リディアは、王太子レオンの婚約者として、その身と祈りを国と王家のために捧げることを約する」
読み上げた途端、喉がきゅっと詰まった。
《ここが、あなたの人生を大きく縛っている条文ですね》
「……分かっています」
国のため、王家のため。そう言われるたび、自分の願いは後回しにするのが当然だと教え込まれてきた。前の世界でも、「会社のために」のひと言で、どれだけの残業が正当化されたか分からない。
「女神様」
《はい》
「もし、私がこの婚約から逃げたいと願ったら。女神様は怒りますか」
泉の音に紛れそうな声だった。けれど女神様は、迷いなく答える。
《私は怒りませんよ》
《私は、契約に書かれた願いをできるだけ公平に叶えたいだけです。怒るのは、条文を読まずに得だけ取りたい人たちの役目です》
「……願い」
《ええ。それに、嫌だも立派な願いです。ここから逃げたいを条文にしてはいけない理由なんて、本当はどこにもありません》
胸の奥で、何かがかちりと鳴った気がした。
(自分の嫌だを、条文にしてもいい)
そんな発想は、今まで1度も許されなかった。前の世界でも、この世界でも。
《本音を言えば、世界側の契約から手をつけたいんですけどね》
女神様がくすりと笑い、泉の奥を指さす。
水面のさらに下から、巨大な影のようなものが姿を見せた。国境線のような線と、複数の神殿の印が刻まれた、途方もなく大きな契約書の輪郭。
「……世界契約」
《ええ。でも、さすがに今すぐここに直接ペンを入れるには、材料が足りません》
「そこまで大きな話になるんですか」
《やること自体は変わりません。条文を読んで、必要なら直すだけです》
さらりと言われてしまうと、本当に簡単な作業みたいだ。けれど、その条文の上には、人の生活と人生が乗っている。
《だから今日のところは、範囲を絞りましょう》
女神様は3枚のうち1枚を手前に滑らせた。王太子との婚約契約書だ。
《世界契約は、いずれ。神殿全体の労働規程も別案件として扱います。今夜は、あなた個人の人生に1番影響が大きい契約から》
「この婚約契約を」
《はい。離婚にせよ再契約にせよ、ベースになる紙ですから》
心臓がどくんと鳴る。逃げるための契約、という言葉が、漠然とした願いから目の前の紙の話に変わっていく。
《ちょうど近いうちに、あなた方の婚約を世の前で確認する儀式がありますよね》
「神前確認式」
《形式通りなら、契約が守られているかを神の前で確かめる場です。そこで、どのボタンを押すか決めるのも1つの案です》
「ボタン」
《前の世界でありましたよね。同意するを押すかどうか、画面の前で悩むやつ》
思わず笑いが漏れる。終電を逃した夜、私は就業規則の確認画面で、あのボタンを前に固まっていた。
「……もし、どちらかを選ぶときが来たら。今度こそ、私がどうしたいかから決めたいです」
言葉にしてみると、思っていたよりも重かった。
「国のためとか、王家のためとかじゃなくて。私自身が、この契約を続けたいのか、もう終わらせたいのか」
《とても良い宣言ですね》
女神様が満足そうに微笑み、手を軽く振る。
光の中に、見慣れた羽ペンが現れた。白い羽根の先端が、さっきよりも強く光っている。
《では、その願いを書き込む余白だけ、先に用意しておきましょう》
婚約契約書の最後のページがめくられ、そこにふわりと大きな空白が生まれる。何も書かれていないのに、そこに自分の未来が詰まっているようで、息が詰まった。
《世界を変えるときは、たいていここから始まります。当事者の同意なき義務に、2本線を引くところから》
「本当に、私の婚約から世界を動かしていいんでしょうか」
震える声で問うと、女神様は少しだけ目を細めた。
《契約は、いつだって1人からですよ》
羽ペンの先が、第1条の上にぴたりと止まる。
静かな夜の泉で、光るペン先が紙に触れようとする、その瞬間の気配だけが、長く長く、私の胸に焼きついた。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
第9話からいよいよ逃げるための婚約契約編スタートです。前世ブラック企業の記憶と、神殿の理不尽さが条文として繋がっていくのを楽しんでいただけたら嬉しいです。
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