第21話 英雄である義務からの解放
沈黙が、会議殿の天井まで張りつめていた。
ミレーヌは証言台の前で立ったまま、口を開いて、閉じて。さっきまで確かにあった勇気だけが、形を失って落ちていく。
円卓の神々も、人間の代表も、誰も助け舟を出せない。出した瞬間に、彼女の「選んだ」という言葉に寄りかかってしまうから。
そのとき、ミレーヌが銀鎖に指をかけ、喉の奥を擦るみたいに声を絞った。
「……全文、出してください。私の契約です」
それは開き直りじゃない。
逃げ道を、他人に預けないという宣言だった。
レオン殿下が息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
女神様は、羽ペンで机を一度だけ叩く。乾いた音が、合図になる。
スクリーンに光の文字が走った。
鎖みたいな筆致で、条文が上から下へ、淡々と積まれていく。見慣れた「努力義務」という柔らかい言葉が、いくつも並ぶ。
そして――次の行で、空気が変わった。
《多数を救える局面では、自己犠牲を優先する》
ミレーヌの銀鎖が、ほんの一瞬きしんだ。
装飾みたいに見える細さなのに、締まるときだけ、首輪だとわかる。
「見てください」
ミレーヌはスクリーンを見上げたまま、笑えない笑みを作った。
「ここに書いてあるのが、私の命の値段です」
レオン殿下が反射で立ち上がった。止めたいのか、庇いたいのか、言い訳したいのか。衝動が全部混ざった顔だ。
「……そんな契約、僕は望んでいなかった」
その言葉に、会場の視線が殿下へ刺さる。
けれど、椅子を引く音より先に、セルジュが立った。
「望みは、条文になっていません」
淡々とした声。冷たいはずなのに、私の胸だけが勝手に熱くなる。
守り方が、いつも「手続き」なのが、この人らしい。
「会議規程に従い、発言順を固定します。証言者の場を乱さない」
殿下の足が止まった。
私は、隣にいるセルジュの背中を見て、息を整える。
今ここで必要なのは、怒鳴り返すことじゃない。条文を、外すことだ。
イルダがスクリーンを指し、短く言った。
「論点。努力義務の定義。撤退の権利が消えている」
私は頷き、言葉を選ぶ。
ここで感情で殴ったら、光の女神と聖王は「英雄の美徳」で固めてくる。だから、構造で切る。
「『努力』って言葉で、拒否権を消してるんです」
私はスクリーンの致命条項を指した。
「本人が『救いたい』と言えば、それが同意の証になる。でも、撤回できない同意は――同意じゃない」
言いかけて、妙に丁寧な敬語の型が口に引っかかった。
噛んだ。最悪だ。
セルジュが無言で水を差し出す。私は受け取り、ひと口だけ飲む。熱が喉を通って、頭が冷える。
円卓の端で、光の女神がこちらを見ている。
まっすぐで、冷たい光。理想を握りしめた手の光だ。
その光が、ミレーヌの鎖を強くする。そんな気がして、私は息を吸った。
証言台の横で、ユリウスが口を開いた。
光の聖騎士。先ほどまで、誓願文を誇りみたいに唱えていた人。
「これは、私の……同意、です」
言い切れなかった。
喉元に、薄い光の枷が浮かぶ。言葉が出るたび、枷が締まる。
ユリウスは反射で跪こうとして、椅子がガタンと鳴った。慌てて真顔で座り直す。その滑稽さが、逆に痛い。
「英雄で、い続けろと……そう書いてある」
声が震える。英雄の鎧の内側から、人の声が漏れた。
「望むって言ったら、強いってことだと思ってた。……でも、望みたいんだ。生きたい。怖いって言っていい世界で」
私は、詰めなかった。
責めれば、また鎧を着る。彼は上手に英雄に戻ってしまう。
「撤退していいです」
短く言う。
「今日だけじゃない。次も。必要なら、永遠に」
セルジュが一歩だけ近づいた。影が、私と証言台の間に落ちる。
腕は触れていないのに、そこに壁ができたのがわかる。圧が、少しだけ減る。
私はその支え方を、拒まなかった。
「……はい」
自分でも驚くくらい小さな返事が、口からこぼれた。
女神様が羽ペンを持ち上げ、スクリーンの端に空欄の枠を出す。
《世界契約 第2条》
まるで「早く埋めろ」と言っているみたいに、枠だけが光っている。
イルダが読み上げる声は、いつも通り乾いていた。
「第2条。救済の対価として、生命または身体の損耗を義務として課してはならない。英雄、聖騎士、聖女その他の称号は、義務拡大の根拠にならない。自己犠牲を条件とする誓願条項は無効。撤回と撤退の手段を必ず明記する」
私は、光の女神を見た。
彼女の理想は「人を救う光」だ。否定したくない。否定する権利も、私にはない。
だから、壊すのは理想じゃなくて、鎖の方だ。
「英雄であることは、義務の根拠になりません」
私は、淡々と言い直した。
「救いたい気持ちは、願いです。義務にした瞬間、誰かの首輪になります」
「それでも救いを語るなら――救う人を潰さない形で、語ってください」
会議殿が凍った。
光の女神は沈黙したまま、指先だけがわずかに動く。怒りか、迷いか、それとも――。
女神様は急かさなかった。羽ペンを署名盤の上に置き、ただ待つ。
沈黙の間に、ミレーヌの鎖が小さく鳴った。
ユリウスが息を吸う音が、祈りみたいに静かだった。
やがて、光の女神が立った。
一歩。二歩。署名盤の前へ。
目は、私ではなく、ユリウスとミレーヌを見ていた。初めて、価値観の外側を見ている目だった。
ペンを取る。迷いが、手首にだけ震える。
「光は、英雄を作るためにあるのではない」
小さく呟いて、彼女は息を吐いた。
「人を、照らすためにある」
そして――署名した。
光が、しゅっと走った。
スクリーンの致命条項が、鎖をほどくみたいに淡くなる。
ミレーヌの肩が、ほんの少し落ちた。首輪が「重さ」を失ったのがわかる。
ユリウスの喉元の枷も、きしんで、薄くなる。まだ消えない。でも、割れ目は入った。
レオン殿下が唇を噛み、椅子の背に手を置いたまま、動けずにいる。
私は、殿下に向けて言った。
「望まないなら――消しましょう。条文で」
女神様が小さく言いかけて、すぐ真顔に戻した。
「同僚、今日は頑張った」
その瞬間、スクリーンが勝手に次のページをめくった。
太い文字が、冷たく光る。
《罰:10年》
背筋が、ぞくりとした。
世界は1つ条文が増えただけで変わる。なら、1つ罰条項で、いくらでも壊れる。
女神様が羽ペンを鳴らす。
軽い音なのに、開廷の鐘みたいだった。
「次。案件3に移ります」
第21話、英雄の首輪を外す一歩でした。次は《罰:10年》の正体へ。……リディアとセルジュは、罰条項すら条文でひっくり返します。面白かったと思って頂けたら、評価とブックマークで応援してもらえると励みになります。




