第8話 終電のない世界で
見習い聖女が倒れてから、まだ数日しか経っていない。
貧民救済の片付けも、祈祷室での追加の祈りも終わったのに、胸のざわつきは収まらなかった。
だから私は、夜の大神殿を、書類の束を抱えて歩いている。
(眠れないなら、せめて──次に誰かが倒れる前に、止められる条文を見つけないと)
地下の契約書庫は、夜になると小さな灯りだけが揺れている。扉を開けると、羊皮紙とインクの匂いが冷たい空気に混じった。
世界中の奉仕契約が積み上がる棚の片隅で、私は『健康条項メモ』の小さな束を抱え、こっそり増築工事を続けていた。
「……今日は、『可能な範囲で』の洗い出しからですね」
自分に言い聞かせるように呟き、「奉仕契約草案」と書かれた羊皮紙の束を引き寄せる。
◇
「聖女様、こんな時間まで……!」
入口から飛び込んできた声に顔を上げると、ティオが息を切らせて立っていた。両腕には書類の山。
「片付けは?」
「終わりました。でも、聖女様まで残っていたら、誰も帰れないです」
机の上を見て、彼女の顔色がさらに青くなる。
「これ、全部読むんですか?」
「全部は無理です。三年分のログを読ませて、まとめて休暇申請するのが理想なんですけど」
「きゅ、休暇……本当に取れるんですか?」
真剣な目で聞かれると、胸の奥が痛む。
(そこは、女神様次第)
喉まで出かかった本音を飲み込み、私は笑って首を振った。
「今は、誰かが倒れる前に、止められそうな条文を探しているだけです」
「……聖女様のほうこそ、倒れないでくださいね」
ティオは、ぎゅっと書類の端を握りしめる。
「少ししたら、本当に寝ますから」
「約束ですよ?」
何度も振り返りながら、ティオは書庫を出ていった。
私は深く息を吐き、羊皮紙を一枚ずつめくっていく。
「可能な範囲で奉仕に従事すること」。
「信仰心の範囲内で、休息を自己管理すること」。
(これは、誰のための契約なんだろう)
文字を追うたびに、崩れ落ちた見習い聖女の姿が、視界の端に浮かんだ。
◇
《聖女様。本日の稼働ログ、そろそろ十六時間ですよ》
頭の内側で、女神様の声が軽く響く。
(だから止める権限をくださいって、何度も……)
《それをやる条文が、まだ世界契約に入ってないんですよねえ》
軽口を返す気力もなく、私はため息をついた。
瞼が重い。ペン先が紙の上ですべるように揺れる。
(少しだけ。少しだけ目を閉じてから、続きを──)
椅子の背にもたれた瞬間、塔の鐘の音が遠くで鳴った気がして、そのまま意識がふっと落ちた。
◇
目を開けると、そこは石造りの書庫ではなかった。
蛍光灯の白い光。窓の外にはガラスのビルと夜景。線路の上を、電車のライトがゆっくりと滑っていく。
入口の壁際には打刻機。赤い数字で「23:02」。
(……前の世界)
胸がきゅっと縮む。
終電間際のオフィスには、まだ人影とタイムカードの音だけが残っていた。
私は法務部の端のデスクで、契約書の条文とにらめっこしていた。
机の脇には、「就業規則改訂のお知らせ」と書かれた分厚い冊子。
見出しには、「裁量労働制について」「みなし残業〇時間」「自己研鑽は労働時間に含まれません」の文字。
「どうせ形だけですよ。誰も全部なんて読みませんって」
「『同意します』にチェック入れて終わりましょうよ、法務さんでも」
若い同僚が冊子をぱらぱらとめくりながら笑う。
「……そうですね。形だけ、かもしれませんけど」
私は苦笑しつつ、ページの端に付箋を貼っていく。
数字と但し書きを、一つずつ確認しながら。
(この『やむを得ない事情での残業』の定義、危ない)
ペン先が同じ箇所の上で止まる。
細かいところを曖昧にした契約ほど、現場を殺す。分かっていても、変えられない条文が多すぎた。
(勤務時間は、とっくに終わっている。
でも、仕事はここからが本番だった)
窓の外を、一本の電車が通り過ぎていく。
光の帯が遠ざかり、ほどなくスマホが震えた。
『終電を過ぎました。ご注意ください』
事務的な通知に、私はタイムカードの前まで歩く。
さっき押した打刻時間を見つめて、苦笑した。
「……まるで、他人の人生みたいですね」
(終電はある。タイムカードもある。
どちらも、「押したあとが本番」という世界だった)
(終電もタイムカードもない世界があったら、と一瞬夢想して、すぐに「それも危ない」と苦笑する。ディスプレイの光がにじみ、視界が暗くなっていく。せめて、誰も死なない世界がどこかにあれば)
椅子にもたれたまま、意識がぷつりと途切れた。
◇
ふと静けさに気づくと、時計も外のライトも止まっていた。(……過労幻覚にしては、手が込みすぎですね)と自嘲した瞬間、「就業規則改訂のお知らせ」が淡く光り、冊子の上に透明な指先が触れる感触が走った。
《長文契約を、ここまで真面目に読んでくださる方、久しぶりに見ました》と、耳ではなく頭の中に声が落ちてくる。「ついに、幻覚まで条文に出るようになったんですね。私の脳」
《幻覚ではなく、正式なスカウトとお考えください》
淡い光の中に、人の輪郭が浮かび上がる。
《この『自己研鑽は労働時間に含まれません』の脚注。
あなた、さっきから三回読み返しましたよね》
「……ここが一番危ないからです」
《ですよねえ。そういう危なさに気づいてしまう人を、私はスカウトしているんです》
「スカウト、ですか」
《ええ、公正契約担当兼聖女としての転職のお誘いです》
さらりと言われて、乾いた笑いがこみ上げる。
「転職先が、神様の部署だったとは知りませんでした」
《神様というより契約管理職ですね。勤務場所は、終電もタイムカードもない世界です》
「……すでにブラックの匂いしかしないんですが」
《認めます。ただ、その代わり契約の条文を、当事者として書き換える権限があります》
《あなたは、前の世界で「変えられない契約」を読み続けてきた。
今度は、「変えていい契約」を読みませんか》
胸の奥が、じくりと痛む。
終電とタイムカードに縛られた世界と、そうでない世界。
《もちろん、断る自由もありますし、その「嫌だ」を条文として残すこともできます》
「……嫌だ、というより」
私は、自分の手を見下ろした。
紙の上に落ちる影が、小さく震えている。
「もう、誰かが倒れるのを、見ていたくないだけです」
《了解しました》
《勤務地、公正契約大神殿。役職、聖女兼契約担当。
終電もタイムカードもない世界へようこそ》
最後の一言と同時に、視界が強い光に塗りつぶされる。
◇
「……聖女様!」
耳元で、焦った声がする。
まぶたを上げると、羊皮紙の山と石の天井。
頬には紙の端の跡、肩には薄い毛布。
目の前で、ティオが泣きそうな顔で覗き込んでいた。
「本当に気絶したのかと思いました……! 全然起きなくて。女神様に祈ろうかと」
「たぶん、その女神様と、残業面談してたところです」
かすれた声で言うと、ティオはぽかんと口を開ける。
《おはようございます、聖女様。本日もご勤務ありがとうございます。転職後三年目、継続稼働を確認しました》と、頭の中に聞き慣れた声が落ちてくる。(その「稼働」って言い方、そろそろやめません?)《ログ管理上、便利なんですよねえ》
私は小さく息を吐き、書庫の窓から夜空を見上げた。
塔の時計の針は、夜明け前。
窓の外には、電車もネオンもない。石畳の街が、静かに眠っているだけだ。
(終電のある世界から、終電のない世界へ転職した。
タイムカードの代わりに、女神様のログが、私の働き方を記録している)
(……これ、転職先も普通に超ブラックでは?)
《ところで、聖女様。例の「ここから逃げる契約」、今夜泉のほとりで話しませんか》
(今日も残業ですね、女神様)
《深夜の条文会議ですから》
(だからこそ──今度は、契約のほうを変えないと)
終電もタイムカードもない世界で、私の次の夜が、静かに始まろうとしていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
終電のない世界での働き方、少しでも刺さるところがあれば嬉しいです。
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