第16話 神域会議殿への道
孤児院の門の前。夜なのに、人がいる。
エラ院長がランタンを掲げ、子どもたちが並んでいた。背後には、顔見知りの八百屋のおじさんや、いつも契約相談に来る奥さんまでいる。誰も騒がない。ただ、私たちが通るはずの道だけを、静かに開けてくれていた。
「聖女さま、これ……持っていって」
1番背の小さい子が、両手で小さな紙片を差し出した。封蝋つき。乾いた蝋の匂いが、冬の空気に混じって鼻の奥をくすぐる。
受け取った瞬間、封蝋が、ちり、と鳴った。
音が出るはずないのに。
「……ありがとう。これは、預かるね」
紙片の端に、インクでも蝋でもない、銀の擦れがほんの少し光って消えた。嫌な既視感に喉が詰まる前に、私は息を吸って、ポケットにしまう。
セルジュが私の半歩後ろで止まったまま、門の外側を見回す。夫婦、という単語にしたら軽すぎる距離で、逃げ道を塞ぐように守っているのが分かった。
「送ってくる必要は……」
言いかけた私を、エラ院長が遮った。
「帰ってきて」
それだけ。祈って、とも、勝って、とも言わない。短いほど重い要求だった。
「帰ります。……帰って、続きを書きます」
私の声は自分で思うより落ち着いていた。救いに行く旅じゃない。預かったものを、返しに行く。
ティオが、胸に抱えた議事録用のバインダーをぎゅっと抱え直した。目尻が少し赤いのに、紙の角だけは絶対に潰さない。
「……記録、持っていきます」
そう言って、ティオは無言で軽く礼をした。現場の代表が同行する覚悟。私はそれが、なにより頼もしくて、怖かった。
町の人たちは、私たちの背中に何も投げなかった。声も掛けない。ただ、戻る場所がここにある、とだけ示してくれる。
町の人たちは、私のために整列しているわけじゃない。自分たちの明日を、私たちの背中にそっと乗せているだけだ。
その重みが、足首ではなく心臓に絡む。
◇
大神殿の裏庭には、女神の泉がある。月光が水面に薄く縫い付けられて、そこだけが別の世界みたいに冷たい。
《形式通り。移動手順の最終確認を行います》
女神様の声が、泉の底からではなく、空気そのものから落ちてくる。眠たげなのに、事務的で、容赦がない。
セルジュが1歩前に出た。口を開きかけて、閉じる。言いたいことは分かる。帰還の保証。戻るための条文。けれど今は、まだ世界の前提が整っていない。
私はポケットから紙片を出し、封蝋を指でなぞった。
「これを預かりました。帰るのは、願いじゃなくて責務です。戻って、続ける。……そう約束してきました」
《良い置き換えです。個人の感情は、会議の場で燃え尽きますから》
相変わらずひどい言い方をする。けれど、否定できないのが悔しい。
《開会の鐘を。戻る手順は、まだ書いていません》
「……本当に、そこは形式通りじゃないんですね」
《形式通りですよ。書いてないものは、存在しない》
泉面に映る私たちの影が揺れた。その揺れの端に、影とは別の、もう1組の足が、ほんの少しだけ映った気がした。
「今、誰か……」
ティオが呟くより早く、水面は何事もなかったみたいに平らになる。
(銀。足。封蝋の音。全部、つながっているのに、まだ線にならない)。
《進みなさい》
◇
本堂は、夜でも明るい。天井には契約文様が幾重にも走り、壁には発光する条文板が並んでいる。神秘なのに、事務所みたいな匂いがする。紙とインクと、古い木の匂い。
祭壇下の床文様が、淡く発光した。
《形式通り。移動を承認します》
声と同時に、床の線が立ち上がった。光が文字になり、文字が板になり、板が段になる。階段。いや、階段の先は、途中から橋へ変わっていく。現世と神域の境目が、視覚化されたみたいだった。
綺麗。
そう思った瞬間、光が、つっかえた。
息を飲む。階段の1段が波打ち、そこに、細い銀の筋が混じる。光の中に異物が走って、すぐに消えた。
「ティオ。今の、書いた?」
「はい。……書きました。銀、でした」
「綺麗は安全じゃない。観察して、記録して、進む」
自分に言い聞かせるみたいに呟くと、セルジュが短く言った。
「見るな。踏め」
言葉は冷たい。けれど、その冷たさが、私の膝の震えを止めた。
階段に足を乗せる前に、かすかな音がした。かつん、と。誰かが先に乗ったみたいな音。
私は足を止めなかった。
◇
橋に出た途端、縁が揺れた。足元の条文が、紙みたいにしなる。落ちる、と思う前に、揺れの理由が分かってしまう。
道が、私たちを識別している。
2人分の契約印が揃わないと、安定しない仕様だ。夫婦ユニット。そんな、ふざけた実務条件で。
セルジュが無言で手を差し出した。業務動作。いつもの、あの手。
私はその手を取った。
手袋越しでも分かる温度が、指先から腕へ、胸へと伝わった。橋の揺れが、嘘みたいに止まる。
「落ちるな」
「……落ちない。落とさない」
言った瞬間、彼の指がほんの少しだけ強く絡む。強い。逃げ道じゃない。前進のための固定具だ。
背後でティオが必死に筆を走らせる。
「議事録。移動手順、手の――」
「ティオ?」
「い、いえ、今のは違います! 混雑による安全確保です!」
赤くなって、慌てて線で消しているのが分かった。私は笑いそうになって、でも笑えなかった。笑ったら、手の温度に、全部持っていかれる。
橋の向こう側で、鐘の音が1回だけ響いた。
まだ、誰も鳴らしていないのに。
◇
雲海の上に、会議殿があった。
雲を床にしたはずなのに、足音だけはきちんと返ってくる。世界の上に立たされている、と実感する音だった。
人間の建築に似ているのに、人間のために作られていない。石と光と、文字列の影が折り重なって、巨大な回廊が空に浮かんでいる。扉の前には、古い鐘がぽつんと置かれていた。
静かすぎて、心臓の音がうるさい。
《開会の鐘を。ここからは、世界です》
女神様の声が、背中を押す。
私は鐘に近づいた。触れてもいないのに、鐘の縁に銀のひびが走っている。薄い亀裂が、まるで最初からそこにあったみたいに。
セルジュが私の横に立つ。
「触る前に、記録を」
「……ええ。鳴らす。でも、折れたままでは始めない」
私が手を伸ばした瞬間。
鐘の内側から、2重の音が返った。
ちり、と。
封蝋の音と、同じ。
誰かが、中にいる。
私は指先を止めたまま、息を吸う。背後でティオのペンが止まる気配がした。セルジュの手が、まだ私の手を離さない。
鳴らすのは、これからだ。
鐘の内側で鳴った2重の音。いよいよ神域会議殿で、誰が先に入り、何を「書き換え」ようとしているのかが暴かれます。ここまで読んで「続きが気になる!」と思って頂けたら、ブックマークで追いかけてください。広告下の【☆☆☆☆☆】評価や短い感想も頂けると執筆の燃料になります。




