第15話 レオン、再び舞台へ
第3部
封蝋の色を見ただけで、胃がきゅっと縮むようになったのは、たぶん最近の私の悪癖だ。
机の上に積まれた返書は、国ごとに色が違う。濃い赤は帝国。白金は聖王国。青緑は商業都市連合。
そして今、そこにもう1つ――アルシオン王国の印が押された封筒が混ざっている。
自国の封蝋なのに、いちばん厄介な匂いがするのは、何の皮肉だろう。
「リディア様、追加の書類です」
ティオが両手で差し出したのは、出席名簿だった。
神前サミットの参加者一覧。役職、席次、発言順の暫定案。そこまではいい。
名簿の端に、赤い追記があるのが、よくない。
《王太子レオンハルト、証言枠にて参加希望》
指先が硬くなり、紙の角を必要以上に押さえてしまう。
怖いというより、面倒な過去が公式書類になって戻ってくる感覚だ。消したはずの残業申請が、月末にまとめて差し戻されるみたいに。
「……本人に会う必要、ありますか」
私の声は、自分でも驚くくらい平坦だった。
セルジュはペン先を置き、視線を上げないまま答えた。
「ありません」
「え」
「会わせません。必要なのは謝罪ではなく、証言です。あなたの安全は――私が条文で守る」
心臓が一拍遅れて鳴った。
守る、と言われたことが胸に刺さるのに、彼の言い方はいつもと同じ、官僚の報告書みたいに冷静だ。
だから余計に、逃げ場がない。嬉しいのに、照れてしまう逃げ場が。
セルジュは名簿の余白に、短い一行を書き足した。
紙の上で、文字が鎖みたいに並ぶ。
《聖女の拒否権は、例外なく尊重される》
その下で、女神の羽ペンの印が薄く光った。
頭の奥で、あの軽い声が鳴る。
『いいですね。今の一文、世界の最低限にしてもいいくらいです』
「女神様、軽く言わないでください。私の胃が」
『胃は大事です。契約も大事です。どっちも守りましょう』
ティオが名簿を覗き込み、真顔で首を傾げた。
「証言枠って、座席の種類ですか」
「違うよ」
「でも、枠って……」
「枠は枠です。座らせる場所を、こちらで決めるための枠です」
セルジュが淡々と説明すると、ティオが逆に青ざめた。
「こ、怖い……」
「安心しなさい。怖いのは、相手の自由を放置したときです」
その言葉に、私の背筋が伸びる。
逃げたい。会いたくない。
でも、逃げない。――逃げない代わりに、守る。守られる。
その日の午後、私たちは王宮の小会議室に呼ばれた。
グスタフ王、クロード宰相、大神官長アグナス。いつもの3人に、今日は余計な緊張が混ざっている。
机の上には、王太子府の申請書。署名欄は空白のままだ。
「……レオンが、証言者として出たいと」
グスタフ王が言いかけて、言葉を探す。
父親としての困惑と、国王としての計算が、同じ顔に同居している。
クロード宰相が鼻で笑った。
「今さら舞台に戻りたいだけだろう。世間は忘れやすい。泣いて謝れば、英雄扱いにしてくれると思っている」
「クロード」
アグナスが制するが、彼も顔色は良くない。
「神前サミットは神々と国家の席だ。王太子の私情で乱されては……」
セルジュが、申請書を手に取った。
紙を読む目が、いつもより冷たい。
「復権の場にしません」
「言い切るな」
クロードが睨む。
「言い切ります。条件を全部、条文化します」
彼は新しい紙を出し、さらさらと項目を書いた。
私は横から覗き、必要なところに補足を入れる。
いつもの仕事だ。いつものはずなのに、今日の条文は、私の胸の奥の傷まで守るためにある。
「条件1。聖女への接触禁止。直接の謝罪も、言い訳も、求婚も禁止」
「求婚は……」
グスタフ王が咳払いした。
「可能性ゼロではありませんので、禁止しておきます」
セルジュが平然と答えるので、私は危うく笑いそうになる。
こんな場で甘い顔はできないのに、彼は平然と私を守る言い方を選ぶ。
「条件2。証言は、司会が指名した質問にのみ回答。発言順は固定」
「条件3。音声ログを含む証拠の公開・再生・編集の主導権は、女神と議長席が持つ」
私が口にすると、クロードの眉が上がった。
「編集だと? 都合のいい切り取りは――」
「都合のいい切り取りを防ぐための編集です」
私は息を整える。
「被害者を晒さない。笑い物にしない。再発防止の教材にする。そのための編集です」
アグナスが唇を噛み、静かに言った。
「恥を、国の公文書にするのか」
「隠して爆発するより、自分で開示して、ルールを作る方が被害が少ない」
セルジュの声が低く落ちる。
「王太子の恥ではありません。アルシオンの契約観の誤りです。ならば、正すのは国務です」
グスタフ王が、椅子の肘掛けを握った。
しばらく黙ってから、私の方を見る。
たぶん聞きたいのは、国務ではなく、私の気持ちだ。
「リディア……辛いか」
優しい問いが、逆に胸を締める。
私は正直に頷きかけて、途中で止めた。
辛い。会いたくない。
でも、私が逃げたら、また誰かが「我慢するのが美徳」だと条文にされる。
「辛いです」
私は言った。
「でも、逃げません。逃げない代わりに、拒否権を使います。守るために」
その瞬間、頭上から軽い声が降ってきた。
『はいはい、真面目な会議のいいところで呼ばれましたね。結論、音声、使いますね』
全員が天井を見上げる。女神は姿を見せないのに、声だけで場を支配する。
私は溜め息を飲み込み、内心で返した。
「女神様、今それを言うと、全員の心臓が止まります」
『止まっても契約は進みますよ。冗談です。だいたい冗談です』
クロードが額を押さえた。
「……神が編集と言う時点で、もう止められんな」
グスタフ王が小さく頷く。
「条件を満たすなら、出席を認める。ただし――」
「ただし」
セルジュが、言葉を受け止めるように復唱する。
「聖女の安全が最優先だ」
王は私を見る。
「それが守れないなら、王太子の席は、私が外す」
会議が終わり、王宮の廊下を歩きながら、私はようやく息を吐いた。
セルジュの外套が、私の肩に触れない距離で揺れている。
視界に入れて守る、という彼のやり方は、支配じゃない。
私の意思が折れないように、折れそうなところだけ支える手だ。
「セルジュ」
「はい」
「……ありがとう」
言った途端に、顔が熱くなる。
彼は歩みを止めず、いつもの声音で返した。
「感謝は不要です。業務上、あなたが無傷であることが最優先です」
「それ、言い訳ですよね」
「言い訳です」
即答だった。
私は笑ってしまい、息が少しだけ楽になる。
大神殿に戻ると、ティオが封筒を抱えて待っていた。
今度は、王太子府の封蝋が割られている。
中から出てきたのは、同意書。条件1から3まで、すべて了承。
署名欄の文字は、綺麗なのに、インクがわずかに滲んでいた。
「……殿下、震えてたんでしょうか」
私が呟くと、ティオが小さく頷いた。
「衛兵さんが言ってました。受付で、殿下……口ずさんでたって」
「何を」
答えを聞く前から分かってしまうのが、最悪だ。
「『お前を愛するつもりはない』の……替え歌です」
私は天を仰いだ。
恥の自覚があるのは、救いなのか、罰なのか。
たぶん両方だ。契約はいつだって、片方だけにしてくれない。
セルジュが同意書を受け取り、最後の頁をめくる。
余白に、短い追記があった。たった2文字。
《やれ》
目線を上げずに、セルジュが言った。
「……腹を括ったようです」
私の喉が、かすかに鳴る。
次に再生されるのは、あの一音だ。
あの日、私の心に刺さった、あの言葉の始まり。
頭の奥で、羽ペンが小さく鳴った。
『では、再生準備を』
ここまでお読みいただきありがとうございます。次話は、再生された「声」が神前サミットの空気を一変させます。面白い、続きが気になると思って頂けたら、下のブックマークと【☆☆☆☆☆】評価で応援してもらえると励みになります。




