第10話 世界を映す契約地図
王宮の地図室は、空気まで紙の匂いがする。
壁一面の世界地図。その前に長机が置かれ、私の膝の上には封筒が積まれていた。
「……赤、増えました。世界が、思ったよりもう持たないです」
口に出した瞬間、喉の奥がひりついた。
グスタフ王が目を細め、クロード宰相がため息を隠しもしない。大神官アグナスは祈りの癖で指を組み、端のティオは羽根ペンを握ったまま固まっていた。
そして、セルジュだけが淡々と椅子を引く。
私の椅子を。彼の隣の席を。
「報告者は聖女リディアです。今回の資料は、彼女の記録と現場証言に基づきます」
「……公の場で言うのね、それ」
「公の場だから言います。彼女は条文担当で、私の交渉担当です。世界改革の共同代表として扱ってください」
業務口調のくせに、逃げ道を塞ぐ言い方。
私は小さく息を吸って、封筒の口を切った。
「まず、ヴァルドーラ帝国。債務奴隷契約――本人の同意なしに、家族まで義務が拡大します」
赤い印を、帝国の中央に刺す。
針が地図を貫く音が、やけに大きい。
「次に、寿命の誓約。借金の代わりに、年数で支払わせる契約が……当たり前のように流通していました」
「年数?」
「5年、10年、20年。紙の上では任意です。でも、拒否できる人はいません」
もう1つ、帝国の国境沿いに赤を足す。
点が、線になりかける。
クロードが机を指で叩いた。
「帝国の醜聞は帝国のものだ。わざわざ我々が火中に飛び込む必要は――」
「火は、風で飛びます」
セルジュが遮る。
「隣国の火事を笑っている間に、自国の屋根が燃えます」
私は続きを告げた。
「ルミナリア聖王国。聖騎士ユリウスの誓願契約――努力義務が、生命維持より優先されます」
「……神への献身は美徳だ」
アグナスが苦い声を出す。
「美徳が契約になると逃げられません。倒れても、倒れたことが違反になります」
赤を、聖王国の中心に刺す。
次に、山岳の修道院へ。贖罪奉仕の牢。罪と罰の釣り合いがなく、10年単位で無償労働が続く。
ティオのペン先が震えた。
「議事録に……贖罪は上限なく延長されうる……」
私は頷き、最後の封筒に指をかける。
ウェルナ商業都市連合の印。
「ウェルナは、契約が生活の骨になっていました。掲示板に、条文が毎日貼られていて……」
「そこはむしろ健全だろう」
クロードの声が少しだけ柔らぐ。
「健全です。ただ――健全だからこそ、歪みが見えにくい」
私は紙を広げた。
「合理の名で、救済が削られる。破綻した商人に二度と信用を与えない条項。保証人の連鎖。誰も悪意がないのに、人が詰みます」
赤を、連合の港に刺す。
点が、また増える。
地図の赤は、もう事件じゃない。
流行病の斑点みたいに、世界へ広がりかけていた。
「……これで、終わり?」
グスタフ王が、やっと言った。
「いいえ」
私は封筒の底から、最後の紙を出す。
アルシオン王国の封蝋。自国の印。
「私たちにもあります。聖女奉仕契約。騎士団の命捨て契約。王太子婚約契約――」
言いながら、胸が少しだけ軽くなる。
隠していた時より、言葉にした方が息ができた。
赤を、王都に刺した。
沈黙が落ちる。
クロードが顔をしかめ、アグナスが視線を伏せる。
グスタフ王は、赤印の真上に置かれた針を見つめたまま動かない。
「自国すら完璧でないのに、世界の最低限など……」
アグナスが絞り出す。
「恥をさらすことになります。信仰も、権威も、揺れる」
セルジュが、私の前に出ない。
代わりに、私の隣に立ったまま言った。
「恥をさらす国だけが、信用を得ます。隠して爆発するより、自分で開示して、ルールを作る方が被害が少ない」
「綺麗事だ」
クロードが吐き捨てる。
「他国は利用する。帝国は笑う。聖王国は正義を盾にする。ウェルナは損得で刃を研ぐ」
「だから、最初に席を作るんです」
セルジュの声は、冷たいほど静かだった。
「こちらが議題を出し、規程を引く。主導権を渡さない。――ティオ、赤印の順に番号を振れ。そのまま議題順になる」
「は、はいっ」
私は、地図の赤を見た。
リアナの鎖。ユリウスの震える手。ミレーヌの笑顔の裏の、諦め。
「放っておけば、増えます」
自分の声が、思ったより低い。
「契約は、作った人より、次の人を縛る。私たちが目を逸らしたら、次は誰が当たり前になりますか」
ティオが唇を噛んだ。
アグナスが、ゆっくり目を上げる。
「……逃げ道が欲しい」
「逃げ道?」
「神殿も王宮も、自分の過ちを認めるなら、壊れずに済む道がいる。崩れてしまえば、守れる者も守れん」
それは慎重論じゃない。
覚悟の形が違うだけの、同じ痛みだ。
グスタフ王が、椅子の肘掛けを握りしめた。
いつもなら、ここで先送りにする。
でも、今日は地図が逃がさない。
「……先送りにして、守れたものがあったか?」
王の声が、地図室の天井に反響した。
「提案する。世界の最低限を、決め直す。神前サミットを――このアルシオンが、呼びかける」
クロードが目を見開く。
アグナスが、ゆっくり頷く。
セルジュの横顔は動かないのに、私は彼の呼吸がほんの少しだけほどけたのを感じた。
そのとき、頭上から軽い声が降ってきた。
「会議室、足りないでしょう? 増やしますね」
女神だ。
どこにいるのか分からないのに、いる。
セルジュが、初めて眉を動かした。
「……神域に増築という概念が?」
「あります。必要なら作ります。書類も増えますけど」
ティオが反射で口を開く。
「工期は――」
自分の口を両手で塞いで、真っ赤になった。
女神は、笑った気配だけを残して続ける。
「ただし。増築できるのは、私の管轄の部屋だけです。上のレイヤーは……鍵が違うので」
「上の……」
私が問い返す前に、声は遠ざかった。
私は、地図の赤を見下ろして言った。
「世界契約の余白、埋めに行きましょう。私たちのためじゃない。守るために」
会議が解散し、皆が地図室を出ていく。
最後に残ったのは、私とセルジュと、地図の赤だけだった。
「怖いですか」
セルジュが、こちらを見ずに言う。
「怖い。……でも、逃げない」
私は、彼の隣に立ったまま答えた。
言葉じゃなく、立ち位置で返す。今夜は、それでいい。
ふと、地図の端が淡く光った。
赤い印が、1つ。
誰の手も触れていないのに、針が勝手に立ち上がるみたいに。
位置は、海の上。
伝承では、そこは神域への境目――人の地図には載らないはずの場所。
セルジュが、私の手首に指を添えた。
止めるのではなく、逃げさせないために。
「……リディア」
「うん。見えてる」
赤は静かに、そこに居座った。
世界地図の上で、世界より高い場所を指して。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
海の上に立った赤印――あの瞬間から、リディアとセルジュは世界の『上層の鍵』に手を伸ばすことになります。
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