第8話 ミレーヌの自己犠牲契約
礼拝堂は、夜の祈りのための静けさを抱いていた。
蝋燭の火が揺れるたび、床の白い石が淡く光る。
マリアンヌから届いた伝言は短い。
『今夜、礼拝堂で。どうしても会ってほしい方がいます』
それだけで、胸の奥が嫌な予感で湿った。
入口でセルジュが足を止め、私にだけ聞こえる声で言った。
「視界から外れないでください」
「分かってます。……ここ、神殿の中なのに」
「だからです。境界は、神の都合で歪みます」
脅しみたいな言い方なのに、手の甲に触れる指先はやさしい。
私は小さく頷いて、彼の隣へ寄った。
その光の中で、ミレーヌ侯爵令嬢は膝をつき、両手を胸の前で組んでいた。
祈りの言葉は聞こえない。代わりに、首元の銀鎖が、息の動きに合わせて小さく鳴る。
美しい。だから余計に、首輪に見えた。
私は足を止めたまま、喉の奥に固いものを飲み込む。
隣にいるセルジュが、何も言わずに私の肩へ外套をかけた。冷たい夜気を遮る布と一緒に、余計な視線も遮ってくれるみたいに。
「……来てくださって、ありがとうございます」
案内役の女司祭マリアンヌが、小さな声で言った。いつも指先でロザリオをなぞる癖が、今夜は強く出ている。
彼女が言った「会ってほしい方」は、この人だ。
ミレーヌは祈りを終え、ゆっくり立ち上がった。控えめな笑み。完璧な所作。
でも、指先だけが震えている。
「聖女様……いえ、リディア様。宰相補佐殿も」
丁寧な挨拶のあと、彼女は自分の銀鎖に触れた。
撫でる仕草は優雅なのに、その指は逃げ道を自分で塞ぐみたいに迷いがない。
「これは、私が選びました」
先にそう言われると、言い返す言葉が喉で引っかかる。
選んだ。だから正しい。だから黙れ。
そんな形にされるのが、最もつらい。
マリアンヌが視線を伏せる。
「鎖は……誓願の証です。運用主体は神殿。本人の意思確認も、形式上は……」
「形式上、ですよね」
私の声は低かった。怒鳴らない。ここでは、怒鳴った方が負ける。
セルジュが、私より少し前へ出る。剣を抜く代わりに、立ち位置で守ってくる男だ。
「お時間をいただけますか。契約の確認が必要です」
その言い方が、ミレーヌの肩を少しだけ軽くしたように見えた。
彼女は胸元の小さな革袋から、折り畳まれた契約書を取り出した。封蝋は鎖の紋。紙なのに、触れるだけで冷たい。
「これは……家を守るためでした」
彼女は目を伏せたまま、言葉を選ぶ。
「私の家は、王太子殿下の……いえ、『主』の家に逆らえません。援助も、後ろ盾も、全てがそこに繋がっていて」
主、という呼び方のところだけ、声が擦れた。
胸の奥が、嫌な音を立てる。
それは愛の言葉じゃない。支配の言葉だ。
「署名した日のこと、覚えてます」
ミレーヌの瞳が遠くなる。
「応接間に、光の女神像があって。神官が朗読して、私は頷いて。皆が『立派だ』と言いました」
「怖い、とは言えませんでした。怖いと言ったら、家が崩れる気がして」
「それに……主は、望むものを選ぶ方です。私が弱さを見せたら、選ばれないと思って」
そこで彼女は、ほんの少しだけ笑った。
泣きたい顔を、笑みで固める笑い方だ。
「私は、うまくやれると思っていました。自分が犠牲になれば、誰も傷つかないと」
契約書の該当箇所が、ミレーヌの指で示される。
条文は長い。けれど要点は、短い刃みたいに並んでいた。
「多数を救える局面では、自己犠牲を優先する」
「達成の努力義務」
「……そして、失敗した場合の担保は、私の命です。最初から」
言い終えた瞬間、礼拝堂の空気が凍った。
蝋燭の火だけが、何も知らない顔で揺れている。
私は息を吸って、吐いた。
怒りで壊したくなる。目の前の誰かを。
でも、壊すべきは人じゃない。
「それ、あなたがいなくなる前提で設計されてますよね」
ミレーヌの瞳が揺れる。否定しない。できない。
その沈黙が、彼女のこれまでの全部だったのだと思った。
マリアンヌがかすれた声で言う。
「私たちは……美徳だと教えました。救うための鎖だと。けれど、救われる側の命が先に差し出されているなんて……」
「謝るのは後でいいです」
私はきっぱり言った。冷たくするためじゃない。順番のためだ。
「今は、止める方法を作ります。ここで泣いたら、明日も同じ鎖が増える」
セルジュが、淡々と言った。
「怒りは武器になります。刃にするのは、条文です」
「……今夜、ここで得るのは同情じゃない。条文にする材料です」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
次へ進むための、証言だ。
(女神様)
頭の中で呼びかけると、いつもの澄んだ声が返ってきた。
《それ、やばい条文ですね》
(ですよね。これ、世界契約案件ですよね)
《案件です。でも、今ここで外すのは無理》
《救済は今すぐじゃない。手順がいる》
冷たい宣告なのに、なぜか安心が混じる。
ご都合で奇跡が起きて、全部なかったことになる世界じゃない。だから、勝てる。
《代表例として、サミット案件に組み込みます》
《自己犠牲努力義務の系統。証言者は保護対象》
女神様が淡々とそう告げた瞬間、私の前に見えない書類箱が増えた気がした。
私は反射でセルジュを見る。セルジュも反射で頷く。
「……業務承認みたいになってませんか、これ」
「はい」
即答。そこじゃない。
でも、そのズレが息継ぎになった。
ミレーヌが、唇を噛んで言う。
「私……外していいんでしょうか。今さら、そんなことを願っていいんでしょうか」
願うことに、罪悪感が混ざっている声だった。
「あなたが悪いんじゃない」
私は彼女の目を見て、言い切った。逃げない。
「でも、これは悪い。人が消える前提の契約は、間違いです」
ミレーヌの肩が、ほんの少しだけ落ちる。
落ちた分だけ、そこに新しい呼吸が入った。
「……私の失敗が、誰かの助けになるなら」
震えながらも、彼女は頷いた。
「消えるためじゃなく……残るために、証言します」
マリアンヌが、目を潤ませて深く頭を下げた。祈りの所作が、初めて人間の謝罪に見えた。
「契約写しを預かります」
セルジュが事務的に言い、私より先に契約書を受け取った。
その手つきは冷静なのに、私の怒りを前に立たせないための段取りだと分かる。
守り方が、ずるい。
礼拝堂を出る廊下の灯りが揺れた。
その瞬間、セルジュの手の中で契約書の末尾が、濃紺ではなく銀に変わった。
銀の文字が、もう1段、下に浮かぶ。
署名者欄が、2段ある。
ミレーヌの銀鎖が、微かに熱を持った。彼女が息を呑む。
《……署名、銀が混じってます》
女神様の声が、冗談みたいに軽いのに、背筋が冷えた。
「解析が要ります」
セルジュの視線が、銀の文字を追う。
「感情より先に、署名です」
私は笑いそうになって、笑えなかった。
また仕事。しかも、世界の裏側の匂いがするやつ。
「……ウェルナに戻りましょう」
口に出した瞬間、決意が形になる。
鎖を鎖のままにしないために。
「明朝、出発です」
セルジュが短く言い、私の手首に触れて方向を示した。
引っ張らない。ただ、迷う余地を消す。
廊下の向こうで、夜の風が鳴いた。
銀の署名が、誰かの指先みたいに、私たちを次の場所へ押していた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
ミレーヌの鎖に混じった『銀の署名』――誰のものか。リディアとセルジュは明朝、ウェルナへ。次話は契約の『裏筆跡』を暴きます。
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