第4話 債務奴隷リアナの契約書
「……読んで。これ、私だけじゃない」
声は出なかった。けれど、帝都の市場の喧騒の中で、口の形だけがはっきり見えた。
少女の首には赤い血族札。胸元には鎖の形の金属タグ。歩くたび、ちり、と小さく鳴って、周りの大人が当たり前みたいに目を逸らす。
私は、目を逸らせなかった。
札が鳴った。私の首の血族札が、かすかに共鳴する。まるで同じ鎖の端っこを叩かれたみたいに。
「今夜……来られる?」
私が唇だけで返すと、少女は1度だけ頷いた。
その瞬間、背後の気配がすっと動く。
セルジュさんが、私の死角へ立った。逃げ道を塞ぐ配置じゃない。私の背中を守る配置だ。
「視界から外れないでください」
低い声。市場の誰にも聞こえない距離で。
「分かっています」
少女は握っていた布包みを、屋台の影で滑り込ませるみたいに私へ渡した。薄い。紙だ。契約書だ。
同時に、監視役らしい男の視線が、鎖タグの揺れを追う。
(ここでは、助けたい、が危険になる)
でも、見なかったことにしたら。
私は、この帝国の合理の欠片になる。
「……今夜。安宿の裏口。灯りは1つだけ」
少女はまた頷き、群れに紛れた。鎖の音だけが残った。
◇
夜の安宿は、壁が薄くて、息の音まで漏れそうだった。
私たちは部屋の灯りを落とし、机の上に布包みを置く。セルジュさんが先に窓を確かめ、鍵を2重にしてから、私の向かいに座った。
「来ない可能性もあります」
「来ます。……来なきゃ、あの子は自分を許せない顔をしていました」
言い切った自分の声が、少しだけ震えているのが分かった。
セルジュさんは、その揺れを拾わないふりをして、短く頷いた。
控えめなノック。
扉を開けると、少女――リアナが立っていた。濡れた髪。息は浅い。鎖タグが、いつもより重そうに鳴る。
「……これ、返さなきゃ、朝には……」
「帳簿係が写しを取り違えて……今夜だけ、私が受け取れたの」
「まず、確認します」
私は机の前に椅子をもう1つ引き、リアナを座らせた。
逃げ道を、先に置く。いつもの仕事の順番だ。
「今、ここで話して、見せるのはあなたの意思ですか。やめたいなら、今すぐやめられます」
リアナは唇を噛んだまま、しばらく黙って――それでも、頷いた。
「読んで。……私だけじゃないから」
「分かりました。読みます。あなたの同意がある範囲で」
羊皮紙は、帝国のフォーマル文字でびっしり埋まっていた。
題名は短い。
『債務奉仕契約書』
私は最初の1行で胃が冷えた。
『債務完済まで、債務者およびその血族3親等以内は、債権者の指示に従う義務を負う』
「……血族、3親等」
声にすると、壁が薄いせいで余計に重く響く。
リアナの指が震えた。
「弟が、まだ小さいの。祖母も……」
次の条文。
『債務額は、債権者が必要と認める奉仕日数により随時算定する』
『奉仕内容は、債権者が指定する』
『離脱・拒否は契約違反とし、血族全員の奉仕期間を2倍とする』
「算定が随時。内容が未定義。解除手続なし」
セルジュさんが、さらさらと紙に書きつける。声が冷たいほど落ち着いているのに、ペン先の速さだけが怒っていた。
「帝国法の観点では、債務の確定がありません。これは債務契約の体をして、実質は永久拘束です」
「……永久」
私はさらに下へ目を滑らせた。
そこに、甘い言葉が混じっているのが、いちばん怖い。
『本契約は、家族の保護を目的とする』
『債権者は、債務者の生活維持に必要な配慮を行う』
「保護、って書いてある……」
リアナが小さく笑った。笑えていない。
「配慮の定義がない。守る気のない言葉は、飾りです」
私が言うと、セルジュさんが1拍置いて、淡々と続けた。
「守るための契約は、守れない条文を置きません」
その言葉が、私の胸の奥の熱を少しだけ戻した。
私は息を吐き、さらに下へ。
署名欄。
『債務者署名:リアナ・——』
そこにある筆跡は、リアナのものではない。名前の横に、形式的な1文が添えられている。
『代署。家長の同意をもって本人の同意とみなす』
リアナが、やっと声を出した。
「私、署名してない」
胸が、ずん、と鳴った。
私の中の前世の記憶が、嫌な形で繋がる。説明を読ませずに押させるサイン。拒否を許さない空気。合意の偽装。
「……本人の同意は、本人の同意です」
私は言葉を探して、でも逃げなかった。
「家長の同意で、あなたの身体と人生を売るのは、同意じゃない。撤回できない同意は、同意じゃない。鎖です」
リアナの目が揺れた。怖さと、怒りと、助けてほしい、が全部混ざった色。
セルジュさんが紙を指で押さえ、私を見ないまま言う。
「あなたが壊れるのは、国益に反します」
「そんな言い方……」
「誤魔化しです。感情で動くと、ここでは殺される」
その声が少しだけ低くなった。
「でも、私はあなたを壊させません」
言い切ってから、彼はすぐに視線を契約書へ戻した。仕事の顔に戻るのが早すぎて、逆にばれている。
そのときだった。
机の上のインク壺が、ちかちかと光った。
薄い光が空中に枠を作り、見慣れた文字が浮かぶ。
《本日の業務ログ:現場確認》
「また、あなたですか」
私は思わず小声で言ってしまう。
《こんばんは。……それ、やばい条文ですね》
女神様の声は、相変わらず飲み会の延長みたいに軽い。だから怖い。
《案件1にしましょう。形式通り、世界に載せます》
「今すぐ、鎖を外せますか」
リアナが縋るみたいに問う。
《奇跡は禁止。条文で殴れ、です》
女神様は、さらっと言った。
《ただ、現場の明朝が早い》
「……明朝」
セルジュさんが窓の外へ目を向ける。
遠くで、太鼓が鳴っていた。
祭りの音じゃない。人を集める音だ。契約へ並ばせる音だ。
「志願儀式の準備です」
セルジュさんの声が硬くなる。
「明朝、『寿命』を払う契約が始まる。武勇と引き換えに、寿命の4分の1を徴収する……帝国は、そういう形で血を削ります」
胃の奥が冷たくなる。
間に合わなかったら、また誰かが、血族ごと削れる。
《見ます?》
女神様が、楽しげですらある調子で言った。
《明朝、『寿命』の取引を》
私はリアナの手を見る。小さな指。鎖の跡。震え。
ここで目を逸らしたら、私は2度と自分の条文を信じられない。
「……見ます」
私は言った。自分の声が、ちゃんと聞こえた。
「その代わり、リアナ。今夜のうちに、あなたの意思を条文に残す。あなたが望む範囲で。あなたの言葉で」
リアナは、息を吸って、震えるまま頷いた。
セルジュさんが、机の上の余白に新しい紙を置く。
「手順を決めましょう。あなたが書く。私が運用する。女神は記録する」
そして、いつもの言葉を落とした。
「視界から外れないでください」
札が鳴った。
今度は、鎖の音じゃない。
明朝へ向けて、歩き出す合図だった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
リアナの契約書は「鎖」の形をしていました。明朝は『寿命4分の1』の儀式へ。リディアは条文で守れるのか、セルジュの「視界から外れないでください」も次で効きます。
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