第1話 世界に走るひび割れ
相談所の看板を掲げてから、まだ3日。王都アルシエルの市場の端っこで、私は今日も「契約の読み合わせ」をしている。
机の向こうには、若い夫婦。指輪はあるのに、目が合わない。
「『怒鳴らない努力義務』って書いたのに……守れなくて」
奥さんが泣き笑いで言う。旦那さんは帽子を握り潰しそうな勢いで黙り込んだ。
「努力義務は、できない日がある前提です。逃げ道までセットにしましょう」
「逃げ道……?」
私は羊皮紙の余白を指で叩く。
「『声が大きくなったら5分別室に退避する権利』。それと『追いかけない義務』」
「追いかけない……」
「追いかけると、相手は追い詰められます。だから、ここで止める」
隣でセルジュさんが、無表情のまま紙を整えた。
夫。契約上は。けれど、私が息を詰めそうになると、必ず先に息継ぎを作ってくれる人だ。
「案件名は」
「付けないでください」
「記録上、必要です」
「恥ずかしいです」
夫婦の前で言い合って、私は少しだけ赤くなる。旦那さんが小さく笑って、空気が1度だけゆるんだ。
市場は今日も忙しい。魚屋の声とパンの匂い、その合間に噂話だけが勝手に泳いでいく。
「帝国で、奴隷の鎖が暴れて死人が出たって」
「光の国では、聖騎士が自分で——」
「北の港は、加護が止まったらしいぞ」
どれも遠い話。なのに、胸の奥だけが、いやに早く脈を打つ。
その瞬間、視界の端で「見えないはずのもの」が揺れた。
人々の背に刺さる、加護のタグ。紙片みたいな光が、風もないのに震えている。
……さっきより、ひびが深い。
「聖女様?」
「ごめんなさい。今、少し——」
言い終える前に、耳の奥で、紙が濡れて滲む音がした。
《リディア、泉に来て。今すぐ》
女神様の声は軽いのに、背筋だけが冷える。
私は立ち上がり、セルジュさんの袖を掴んだ。
「……世界が、変な壊れ方をしています」
「確認します。あなたは、私の視界から外れないでください」
守る、じゃなくて。外れないで、という言い方が胸に刺さった。
タグがきしむ、薄い金属音みたいな不快さ。紙が裂ける前兆は、いつも静かだ。
「すみません、続きは明日でもいいですか」
私が頭を下げると、奥さんが慌てて頷いた。
「大丈夫です。追補、楽しみにしてます」
「……必ず入れます」
セルジュさんが素早く書類をまとめ、私の背に外套を掛けた。肩に触れる指先が、短いのに頼もしい。
大神殿の裏庭。女神の泉は、昼でも夜みたいに静かだ。
水面の上に光る板が浮かぶ。けれど今日は輪郭が滲み、息苦しい。
《先に言います。私のせいじゃないです》
「いきなり責任回避から入らないでください」
《責任回避は契約の基本です。さて、見てください》
羽ペンが鳴る。水面から1冊のノートが立ち上がった。
世界契約ノート。試験運用のはずの、それが。
ページが勝手に開き、黒い染みが余白ににじんだ。
墨じゃない。紙の内側から腐っていくみたいな黒。
「……昨日は、こんなに濃くなかった」
《昨日は、まだ薄かっただけです》
女神様の声が、いつもより少しだけ低い。
セルジュさんがページの端を押さえた。彼の指が触れた場所だけ、滲みが止まる。
「世界契約そのものの劣化、という理解でよろしいですか」
《よろしいです。よくないけど》
「原因は」
《上位レイヤーの古い接続条文が擦り切れています。誰かの一撃じゃなく、長年の無理です》
私は黒い形を目で追った。地図みたいに広がっている。国境線らしき線の上を、黒が舐める。
「……国が整っても、外から入ってきたら、また同じことになる」
「結論として、国内改革だけでは不十分です」
セルジュさんは即答した。
「物流も人も契約も、国境を越えます」
《ブラック契約は感染します。あれ、疫病より速いんですよ》
笑いの形をした断言に、胃が冷える。
《帝国。光の国。北の港。まずは、この3つが濃い》
「……行く、んですか」
《行ってください。あなたが。あと、あなたの夫も》
心臓が跳ねた。仕事の恐怖と、変な安心が同時に来る。
私はセルジュさんを見る。彼はいつもの顔で言った。
「危険です。だからこそ、同行します」
「私は足手まといになりません」
「あなたは現場担当です。私はあなたが現場で仕事をするための環境担当です」
守る、じゃなくて環境。けれど、その環境の中心に私がいるのが分かる。
《王と宰相に報告。今日中。契約は速度です》
「……残業決定ですね」
《残業は世界を救います。たぶん》
「たぶんで救いたくないです」
宰相府の執務室は、書類の山が地形になっていた。
宰相クロードは片眉を上げ、国王グスタフ陛下は顔色を失っている。
私は世界契約ノートを机に置いた。空気が、重くなる。
「つまり、世界の契約が黒く?」
「はい、陛下。黒いのは比喩ではありません」
セルジュさんが淡々と答える。
クロード宰相が覗き込み、鼻で笑った。
「神々の仕事も老朽化するのか。笑えないな」
「陛下。落ち着いた今なら行けます。私が倒れていた頃なら、世界の話を聞く余裕もありませんでした」
「……行かせたいのは分かるが、聖女を国外に出すのは——」
「宰相。政治的な都合で、人が削れる条文を放置するほうが高くつきます」
セルジュさんの声が、ほんの少しだけ冷えた。
宰相が肩をすくめる。
「……妻の前だと強いな」
「妻だからです」
即答だった。
陛下が、長く息を吐く。
「分かった。2人で行け。ただし、必ず戻れ。戻るまでが任務だ」
戻るまで。
その言葉が、胸に優しく刺さった。帰ってくる前提で送り出されるのは、まだ新しい。
夜風が冷たい。王宮を出ると、セルジュさんが無言で外套の襟を直し、私の首元を隠した。
「視界から外れないでください」
また、その言い方。
私は頷いて笑う。
「外れません。逃げないなら、条件を握ります。条文も、道も」
「結論として、それが最善です」
帰り道、ティオが走ってきた。息が切れているのに、手だけは丁寧に封筒を差し出す。
「リディア様! 宰相府経由で、これが……!」
封蝋が銀色に光っていた。宛名は、私とセルジュさん、2人分。
《ほら来た。世界からの呼び出し状》
「……まだ、返事してないんですけど」
封筒の角が、指に痛い。
私はそれを握り直し、胸の奥の早鐘を、今度は逃げずに聞いた。
「――じゃあ、行きましょう。世界契約の現場調査に」
ここまで読んでくださってありがとうございます!
第3部はいよいよ「世界契約」の現場へ。次回、銀の封蝋の差出人と、最初の訪問国が判明します。続きが気になったらブクマで追ってください。
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