第39話 女神の「世界契約ノート」
人間界の公正契約大神殿が、やっと眠った。
灯りが落ち、廊下の足音が消え、紙の匂いだけが残るころ。
その少し上――契約の線が星座みたいに浮かぶ空間に、私のオフィスがある。
机の真ん中には、分厚い1冊。
《世界契約ノート/試験運用版》
金文字。趣味の悪さは自覚している。だって、目立たないと困るでしょう? 世界の歪みを直すメモ帳なんて、地味だと見失う。
「はいはい、夜勤開始。今日のログ、同期しましょうね」
羽ペンを弾くと、ノートが自分から開いた。
人間の契約書が積み上がる音はしないのに、ページがめくられるだけで、なぜか気分は残業だ。
最初のタブは《聖女》。
あの子――リディアの、倒れそうで倒れない背中を思い出す。
ページに、太い線で書く。
《休ませる義務》
これ、最高。
神が人間に「働け」と命じてきた歴史の、ど真ん中に、堂々と置ける反論だ。
書き写しているだけで、ちょっと機嫌が良くなる。単純。
次は《騎士団》。
私は軽く舌を出しながら、項目を整える。
《撤退権》
《撤退基準の明文化》
《撤退判断を評価する条項》
「撤退って、恥じゃないのよ。生きて帰るのが仕事」
言いながら、ページの端を指で撫でた。
ここには、誰かの命が乗っている。
同じ日、同じ現場で、撤退を言い出せずに足を引きずった若い騎士。
撤退命令を出して、あとで手が震えた団長。
ああいう震えを、私は嫌いになれない。
次のタブは《家族》。
セルジュの家の、古い契約。家族だから身命を捧げよ、ってやつ。
私は、ペン先を止める。
《守られる権利》
《休ませる義務(家族版)》
《能力の貸し出しは同意が前提》
人間は、家族の名で自分を削るのが上手すぎる。
神がそこを甘く見ると、簡単に、鎖になる。
「……これは、あとで絶対に使う」
ページの片隅に、鎖の落書きを1つ。
遊んでるわけじゃない。覚えておくための印だ。
その前に、今日の《相談所》ログも忘れちゃいけない。
大神殿の片隅に出した、あの手書き看板――「ひっそりオープン」。
あれを見て目を輝かせたウェルナの法務官、イルダ。契約の匂いにだけ鼻が利く人間がいる。
彼女が「これは世界で使える」と言った瞬間、私は天井でガッツポーズをした。もちろん誰にも見せない。
そして最後のタブ。
《夫婦》
開いた瞬間、笑いが漏れた。だめだ、仕事中だぞ私。
《休日デート義務》
《休ませる義務(夫婦版)》
《喧嘩になりそうなときは、お茶を飲む義務》
《怖かったこと申告義務》
《嫉妬の申告義務》
《別れるときの逃げ道保証条項》
「……うん。可愛い顔して、世界的に重要」
誰が想像した?
世界を救う入口が、「お茶を飲む」だなんて。
ログの端に、今日の映像がちらっと浮かぶ。
顔を真っ赤にしてペンを握るリディア。
真顔で文言を整えるセルジュ。
『世界標準なんて、無理です。私、プレッシャーで倒れそうです』
『世界標準ではありません。「テストケース」として提出します』
彼は、本当に冷静だ。
冷静すぎて、たまに人間味が落ちる。だから、あの子が必要なんだろうな。
ページ下部に、小さな表示が光る。
《夫婦契約モデルケース No.001/ログ同期完了》
「はい。登録っと」
私はノートをぱたん、と閉じた。
ここまでが、今あるログ。総ざらい。
でも――本当に怖いのは、ここから。
ノートを指で叩くと、最後尾にすとん、と飛ぶ。
余白ばかりのページが、何枚も続いていた。
ページ端の見出し。
《他国神の悪癖メモ/要修正世界条項リスト(下書き)》
「……我ながら、仕事の引き出しが多い」
私はさらさらと箇条書きする。短く。刺さるように。
《血族単位での永続奴隷化契約(帝国系神)
→ 本人同意なき義務拡大は無効、の条文候補。要検討》
《自己犠牲努力義務を「信仰の証」として課す光属性神
→ 「恐怖・疲弊の申告義務」の転用。
→ 自己犠牲を強制しない条文、草案あり》
《戦死率を武勲としてしかカウントしない軍事神
→ 撤退権条文をベースに、「生きて帰す評価基準」ドラフトへ》
横に、鎖。まぶしい光。血のついた剣。
絵心はない。けれど、あとで見れば思い出せる。
ページ下部に、新しい欄を作る。
見出しを付けて、息を吸う。
「……世界契約サミットが開かれたら、真っ先にテーブルに載せたい条文」
私は、3本だけ書いた。
3本で世界が直るほど、甘くないのは知っている。
でも、柱は必要だ。
《第1条案:本人同意なき義務拡大は無効とする。》
《第2条案:自己犠牲努力義務は、本人の自由意思によらない限り無効。》
《第3条案:生きて帰ることを、勇気と評価する。》
ペン先が、少しだけ震えた。
神だって、失敗する。
同僚が失敗したぶん、私は修正案を増やす。そういう仕事だ。
別の余白に、小さな欄。
《モデルケース No.001 観察ログ》
人間界の2人を思い出すと、胸のあたりが少しだけ温かくなる。
あれは、条文の勝利というより――更新を続ける姿勢の勝利だ。
「世界標準は、完成品じゃない。更新し続ける誰かを、モデルにしましょう」
書いてから、私は小さく笑った。
だって、この夫婦は、喧嘩まで条文化して、言い直す余白を確保した。
完璧じゃないところが、強い。
最後に、日報欄に雑にまとめる。
《本日》
・夫婦契約モデルケース No.001、同期完了。
・他国神の悪癖、相変わらず。
・余白、増設。明日も戦う。
「――ここからしばらく、人間界は、ただのラブコメでいい」
そう言い切った瞬間、ページの端が、ちかり、と光った。
覗き込む視線。既読の気配。遠くの同僚神レイヤー。
「怒っている神様ほど、会議に来てくださるのよね」
私は羽ペンを回し、ノートを閉じた。
次に開くときは、きっと、余白が足りない。
だから今夜は、少しだけ早く消灯する。
人間の2人が、お茶を飲んで仲直りできるように。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
女神の「世界契約ノート」が動き出し、夫婦モデルがいよいよ世界側へ波及します。
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