第38 話街の「契約相談所」、ひっそりオープン
扉の横に、私の字で小さな木札を掛けた。
「夫婦・家族契約 ご相談窓口 本日は試験運用中です」
今日の目標は「誰も来なくても落ち込まない」。そんな小さな覚悟だった。
「リディア様、砂時計はここで……予約帳も用意しました」
ティオが緊張で背筋を伸ばす。机の上には、昨夜まで直していた夫婦契約フォームの束。
『※告知は「ブラック契約注意ポスター」の端っこだけ。バズりませんように。』
女神の声が脳内で鳴る。私も同じ祈りをしていた。
扉を開けて、固まった。
廊下の先に小さな列ができている。若い夫婦、白髪混じりの夫婦、エプロン姿の女性が1人。どの顔にも、日常の疲れと、言葉にできない切実さがある。
「……本当に、来てくださったんですね」
「相談できる場所、意外とないんですよ」
先頭の奥さんが苦笑した。その一言で、私の覚悟が少しだけ固まった。
最初は白髪の夫婦。
「子どもが独立しまして。これからの暮らし方を、決め直したくて」
夫が帽子を揉む。妻が、少しだけ笑った。
「若い頃は、別れなんて考えたくなかった。でも今は……どちらかが病気になったり、相手を縛るくらいなら、解消した方がいい場面もあるのかもって」
私はフォームの下段を指す。
「ここが解消条項です。別れるためじゃなく、自分を守るために。……今笑って話せるうちに決めておくと、後で罪悪感が減ります」
「罪悪感、ねえ」
「私が先に倒れたら、この人、潰れそうだもの」
妻が言い、夫が照れた。
私たちは「介護が長期化したら外部支援を求める」「別居に切り替える手続き」を短い文でまとめた。
署名を終えた2人は、肩を並べて帰っていく。背中が、軽く見えた。
次は新婚の若夫婦。奥さんが目を輝かせる。
「嫉妬したら報告する条文、本当に入れていいんですか?」
「入れてください。嫉妬は安全警報です。申告ルートがないと、爆発します」
旦那さんが困った顔で頷く。
「報告された側には、真面目に聞く義務も入れたいです」
和やかに条文が決まった、その直後。奥さんが解消条項を見て真顔になる。
「……これも、必要ですか。今は想像したくないけど」
ペンが一瞬止まる。昨夜、私が言えなかった言葉が喉に触れた。
「続けられなくなったときの話は、続けたい気持ちを軽くします」
私はゆっくり言う。
「ここに書くのは、別れの条件じゃありません。あなたが自分を捨てさせない条件です」
2人は小さく頷き、「暴力や脅しがあれば即時解消を申し入れられる」「第三者立会いで手続きを進める」と書き込んだ。
3人目はエプロン姿の女性。視線が落ち着かない。
「夫の実家で暮らしてて……義母が私の給金を全部『家のため』って」
「……それは財産管理の問題です」
私は声を尖らせないように言い、フォームを少し前に出した。
「逃げたい。でも逃げたら、嫁の義務を放棄したって言われるんです。夫も……家に逆らえなくて」
私は欄外に短い見出しを書いた。
「避難モード。期限付きの別居、家計の分離、連絡は第三者経由。条件が満たされたら自動で切り替える条文にします」
「そんなの、できるんですか」
「できます。条文にすれば、できます」
『※義実家ブラック避難モード、ベータ版。ネーミングは後で。』
女神が茶化す。私は、今だけはその軽さに救われた。
女性は震える手で書いた。「給金は本人管理」「私物の処分禁止」「脅迫があれば即時避難」。書き終えたとき、肩が少し下がった。
「……紙って、息がしやすいんですね」
私は笑うふりをして、喉の奥の熱を飲み込んだ。
夕方。砂時計の砂が落ち切り、ティオが帳簿を閉じる。
私は指先のインク汚れを見つめた。今日は何枚の紙に、逃げ道を書いたのだろう。
『本日の新規追加条文
・「嫉妬の申告義務」市民版
・「逃げ道条項」テスト運用開始
・「義実家ブラック避難モード」ベータ版
……いいですね、この「アップデートログ」感。』
女神のUIが脳内に浮かぶ。
「……誰かの1枚の紙が変わるたびに、この国の普通が少しずつマシになっていくんですね」
ノックの音がした。
「失礼。予約は……取れますか」
入ってきたのは、きっちりしたスーツ風の女性。鋭い目、分厚いノート。
「ウェルナ商業都市連合・法務局のイルダと申します。討論会以来、お会いしたかった。……窓口ができたと聞いて」
その瞬間、背後から落ち着いた足音。
「ようこそ。こちらが担当の聖女リディアです」
セルジュが外交用の微笑みで同席し、私の前に温い茶を置いた。
「……あなた方、夫婦契約を生活契約として設計している」
イルダはフォームを手に取り、目を走らせる。
「特に解消条項。離婚を推奨せず、継続のための安全を作っている。ここまで平易に、拒否権と第三者立会いを入れている例は珍しい」
誉め言葉の圧が強い。私は思わず背筋を伸ばした。
セルジュが淡々と答える。
「生活を守れない契約は、長期的に国家も損をします」
イルダの目が、きらりと光った。
「その理屈、世界に必要です。アルシオンの内政案件で終わらせるのは惜しい」
「……世界、ですか」
言葉が大きすぎて喉が乾く。私は指輪を触った。ぴったりの輪が、逃げない温度でそこにある。
『※小部屋から世界会議へ。導線、繋がりましたね。』
女神の声が、少しだけ真面目になる。
「このフォーマットを試作品として共有したい。いずれ、各国が条文を持ち寄る場が開かれる。そのときの骨格になります」
イルダが言い切る。セルジュが私を見る。私は頷いた。
「はい。私たちが作ったのは、特別な紙じゃありません。誰でも自分を守るために使える紙です。だから、世界に広がるなら……広がってほしい」
イルダは満足そうに頷き、扉の前で振り返った。
「聖女リディア。あなたの国の普通をマシにしたやり方は、他国の救命具になります」
彼女が去り、静けさが戻る。
「セルジュ……世界って、忙しいですね」
「ええ。ですが、あなたが1枚の紙で救える範囲が増えるだけです」
『※次回、世界契約ノート。心の準備、お願いします。』
女神が軽く告げた。私は茶を一口飲み、立ち上がる。
小さな相談室の扉の向こうに、今日は確かに、世界への細い道が伸びていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。小さな相談室が、ついに世界へ――。次回は各国の思惑が交差し、セルジュの独占欲も静かに火を噴きます。面白いと思っていただけたら、ブクマと評価で背中を押していただけると嬉しいです。感想も大歓迎です!




