第36話 「休ませる義務」と「嫉妬の申告義務」
執務室のテーブルに、夫婦契約ファイルが広げられていた。
紙はもう1枚じゃない。追補、覚書、余白の走り書きが積もって、私の心拍だけが落ち着かない。
「本日議題。『夫婦契約・棚卸し第1次会合』です」
「そんな会議名、いりません……」
視界の端に、神々しいテロップが浮かぶ。
『案件名:テストケースNo.001・運用ログ整理。
※当事者の羞恥は仕様です』
「仕様にしないでください!」
セルジュさんは平然とページをめくった。
「条文一覧。《休ませる義務》――市場であなたが『普通でいいんでしょうか』と言った日ですね」
あのときの「普通を保証するのが契約です」が、胸の奥で静かに鳴る。
「《休日デート義務/最低月1回》――ポスター前のカフェ。余白にメモがあります。『月1回は笑う』」
「そこ、読み上げなくていいです!」
「《喧嘩になりそうなときは、お茶を飲む義務》――34話の試運転。実効性あり」
真面目な声で言われるほど、恥ずかしい。
*
次にセルジュさんが出したのは、3枚の分類メモだった。
「『世界標準候補』『運用ログ参考用』『プライベート扱い』。まず《休ませる義務》は世界標準候補です」
「最初は、自分のための1行だったのに……」
「いまや『労働契約レイヤー』にも転用できます。『相手の休む権利を互いに保証する』。有用です」
うれしいのに、照れるのは、たぶん私がまだ慣れていないからだ。
「《喧嘩用お茶義務》は運用ログ参考用。各国で『お茶』は変わります。抽象化して『喧嘩時のクーリングオフ行為を定める』に」
『世界契約ノート:クーリングオフ条文・抽象案に転記』
女神様、仕事の手が早い。
そして問題の列。
「《寝坊罰金=相手に甘いものを奢る》は」
「プライベート扱いでお願いします!」
『教材としては秀逸ですが、同意は必須です』
やめてください、神の査読付きで赤面する夫婦なんて。
仕分けがひと段落したところで、セルジュさんが静かに言った。
「共通項は『休ませる義務』と『申告義務』です。黙ると、契約は歪みます」
私は、王太子の婚約者だった頃の自分を思い出して、唇を噛んだ。
黙って笑うのは得意だった。守られる技術じゃなく、削れる技術だった。
『※可愛い条文ほど世界的に重要、の法則です』
「……恥ずかしさで死ねます」
「死なないよう、休ませる義務を履行してください」
頭を撫でられて、私は机に額を落とした。
*
夕方、大神殿併設の住居に戻ると、セルジュさんが封筒を机に置いた。
封蝋の家紋、薄い香水。嫌な記憶が勝手に立ち上がる。
「招待状です。契約実務官向けの晩餐会。形式的なものです」
宛名はセルジュ・ラグランジュ。同伴者欄は空白。
私の胸が、ちくりと鳴った。
「……私、行かなくていいんですか」
「行く必要があるなら私が判断します。あなたは休むべきです」
正しい。だけど、昔の私は『正しい』の下で置いていかれた。
喉が詰まって、言葉が出ない。
「リディア。顔色が悪い。……怖かったこと申告義務、履行できますか」
責める声じゃない。入口をくれる声だ。
私は息を吸って、恥ずかしい本音を掘り起こした。
「怖い、というより……嫉妬、です。小さいくせに刺さります」
セルジュさんは頷き、紙とペンを持ってきた。
「では条文化しましょう。黙って摩耗しないための、逃げ道を」
白紙に見出しを書く。
《嫉妬の申告義務》
第1項 当事者のいずれかが嫉妬感情を覚えた場合、合理的な猶予の範囲内で、相手方にその旨を申告する。
第2項 申告は、可能な限り具体的に「何が不安を引き起こしたか」を短く添えるものとする。
第3項 相手方は、前項の申告を、「申告義務の履行」として尊重し、申告したことそのものを理由として非難してはならない。
「……『申告してもいい』じゃなくて、『申告する義務』なんですね」
「『嫉妬を感じないようにする義務』は不可能です。感情をゼロにする契約は歪みます」
「それより、『感じたときに黙らない義務』のほうが、お互いを休ませる」
私は肩の力が抜けた。
「……『嫉妬しない約束』じゃなくて、『嫉妬したら教える約束』。それなら、守れそうです」
セルジュさんが、既存の《休ませる義務》のページを指でなぞる。
「対象に『嫉妬で擦り減った心』も含めましょう」
『世界契約ノート更新。
《嫉妬感情申告義務》および《嫉妬感情に対する休養義務》を、
『人間関係レイヤーの中核候補』として仮登録』
神のUIが、やけに格好いいのが悔しい。
試運転。私はわざと深呼吸して、条文どおりに言った。
「条文どおりに申告します。――さっきの招待状の件、セルジュさんが『仕事だから当然』って顔をしていたのが、ちょっと寂しかったです」
セルジュさんは私の前にしゃがみ、視線を合わせた。
「では、運用として補足します。招待状を受領したときは、まずあなたの意思を確認する。同行できない席なら、代替案を用意する。帰宅後、必ずあなたの時間を確保する」
手を取られて、温かさが戻ってくる。
「置いていくつもりはありません。申告してくれて助かります」
助かる、なんて言葉で嫉妬が救われるとは思わなかった。
私は小さく頷いて、彼の胸に額を寄せた。
*
夜。ファイルを閉じる前に、私は見出しの列を指で追った。
《休日デート義務》《休ませる義務(夫婦版)》
《喧嘩になりそうなときは、お茶を飲む義務》
《怖かったこと申告義務》《嫉妬の申告義務》
そして、最後に残る空白。
《別れるときの逃げ道保証条項》
中身はまだ白い。なのに、そこだけ妙に重い。
「……これも、必要なんですね」
「必要です。あなたのためにも、私のためにも。明日、きちんと書きましょう」
私はファイルを閉じた。
閉じても、白い余白だけが、瞼の裏に残った。
ここまでお読みいただきありがとうございました。嫉妬の申告義務が追加され、2人の契約はさらに甘く、でも少し怖い方向へ。次回は「逃げ道条項」を本当に書きます。面白かったら広告下の【☆☆☆☆☆】評価&ブクマで応援いただけると励みになります!




