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「連載版」白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました  〜婚約破棄してきた王子より、契約書を持ってきた宰相様の方がよほど誠実なんですが〜  作者: 夢見叶
第2部:契約夫婦とブラック契約撲滅案件編

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第34話 喧嘩用条文、試運転

 夜更けの公邸は、静かすぎて、紙の擦れる音だけがやけに大きい。

 玄関の扉を閉めた瞬間、居間の灯りがまだ点いているのが見えて、私は肩を落とした。


「……今日くらいは、早く休むって約束でしたよね?」


 テーブルいっぱいに広げられた書類。片側にセルジュ家の新家族契約の写し、もう片側に議事録と、聖女勤務契約の運用メモ。

 当のセルジュは上着も脱がず、ネクタイだけ緩めたまま、ペンを止めない。


「申し訳ありません。父から追加の確認事項が届きまして。リディア様を巻き込む前に、整理しておきたくて」


 巻き込む前に。

 その言葉が、胸の奥に小さな棘を残した。私たちは一緒に戦って、署名して、家族をひっくり返したばかりなのに。


「……そうですか。じゃあ、夕食は軽くでいいですよね。先にお風呂、いただきます」


 笑顔は崩さない。邪魔にならないように、静かに引く。

 前の世界で覚えた癖だ。忙しい人の前では、存在感を薄くする。そうすれば、誰も怒らない。


 廊下へ向かった背中に、セルジュの声が飛んできた。


「本当に、無理はなさらないでください。セルジュ家のことは、私の問題です。リディア様は、聖女のお仕事だけ考えていてくだされば」


 優しい言い方なのに、線を引かれた気がした。

 私の足が止まる。


(あなたには関係ない……前も、どこかで)


 冷たい空気が、記憶の端を撫でる。離婚を決めた夜の、あの息苦しさ。

 私は振り返り、できるだけ淡々と言った。


「……セルジュさんの家族のことを、『聖女の仕事の外』って言われるの、少し寂しいです」


 セルジュが一瞬固まる。慌てて言葉を継ぐけれど、仕事の口調が先に出てしまう。


「いえ、その……公的な案件としては既に整理済みですから、これ以上、あなたの稼働ログを使うわけには……」


 稼働ログ。

 頭の中で、ぴし、と何かが切れた。


「私は、『ログ』じゃなくて、人間なんですけど」


 声は大きくない。けれど、部屋の空気が一気に張り詰めた。


『はい、険悪度メーター、黄信号入りました……』


 女神の声が、妙に事務的に鳴る。笑えない。

 セルジュの指が肘掛けを強く掴み、私も唇の内側を噛んだ。言い過ぎた、と遅れて胸が冷える。


 それでも、すぐに謝る言葉が出てこない。

 謝ったら、私の寂しさが、ただの甘えみたいで怖い。

 セルジュも、何か言いかけて、結局黙った。


 私は逃げるようにキッチンへ向かった。


 やかんに水を汲み、火を点ける。湯が温まるまでの時間が、やけに長い。

 冷蔵庫の扉に、磁石で留められた紙が揺れていた。夫婦契約の写し。余白に、手書きの一行。


《喧嘩になりそうなときは、お茶を飲む義務》


 あのときは、笑いながら書いたのに。

 今は、救命索みたいに見える。


(……使っていいんだよね。条文って、こういうときのために)


『もちろん。契約は、可愛い顔して命綱です』


 女神が楽しそうに言う。腹立たしいくらい当たっている。


 湯気が立ち始めた頃、背後で足音がした。

 振り向くと、セルジュが居間から出てきていた。ペンは置いてある。だけど表情はまだ硬い。


「……リディア様」


「条文、発動します」


 私は先に言って、カップを2つ並べた。逃げ道を、条文化したのは私たちだ。


 セルジュが小さく息を吐き、契約書の紙に視線を落とす。


「……承知しました。喧嘩になりそうなときは、お茶を飲む義務」


 まるで会議の読み上げみたいな声で、彼は椅子を引いた。

 私は向かいに座り、紅茶を注ぐ。湯気が、薄い壁になってくれる。


 最初の一口は、熱すぎて、舌先がひりりとした。

 その痛みが、頭を少しだけ冷やしてくれる。


「先ほどは……言葉選びを誤りました」


 セルジュが、カップを両手で包んだまま言う。


「私も。……でも、言わないと、もっと怖くなる気がしました」


 沈黙が落ちる。さっきとは違う、重さのない沈黙だ。

 セルジュが深呼吸して、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「喧嘩をなくすためではなく、『喧嘩しても壊れない』ための条文にしましょう。……私は、そのつもりで書きました」


 心臓が、きゅっと鳴った。

 私は頷き、カップの縁を指でなぞる。


「壊れない、って……私、今それが欲しかったです」


 カップの中身が半分ほど減った頃、セルジュが改まった口調に戻った。


「本題に入ってもよろしいでしょうか」


「はい。議題、どうぞ」


 私がそう返すと、セルジュの口元がほんの少しだけ緩む。ずるい。こういうところが、好きだ。


「……リディア様を、これ以上ラグランジュ家案件に巻き込みたくないと思っていました。あなたが、あの家の古い影を見るたびに傷つくのではないかと、怖かったのです」


 怖かった。

 その単語が出た瞬間、私の胸の奥にあった棘が、形を変える。


「私は……セルジュさんがひとりで背負い込むのを、見るのが怖かったです。『私には関係ない』って言われたら、また昔みたいに、隣にいられなくなる気がして」


 言ってしまったら、涙は出なかった。

 代わりに、息が楽になる。


 セルジュが、テーブル越しに指先を伸ばしてくる。私はその手を握った。

 温かい。紙じゃない。ログじゃない。


『怖かったことの申告義務、いいですね。世界契約にもコピペしたいです』


 女神の声が、今度は明らかに上機嫌だ。


「……では、備考にもう一行、足してもよろしいでしょうか」


 セルジュが、夫婦契約の写しの余白を指でなぞる。


「《互いに怖かったことを1つ以上言語化するまで、その日の口論を決着したとはみなさない》」


 私は想像して、思わず笑ってしまった。


「いいですね、それ。勝った負けたじゃなくて、怖かったことを聞き合えたかどうかで決裁、ですね」


 頭の中で、ぽん、と小さな光が弾けた。

 契約書の一行が、登録された感覚。いつもの、あの加護タグの気配。


『夫婦契約:第1条bis、更新。モデルケースNo.001、ログ同期完了。おめでとうございます』


「おめでとう、って……喧嘩の最中ですよ」


「最中だからこそです」


 セルジュが真顔で言って、次の瞬間、少しだけ困った顔になった。


「……稼働ログ、という言い方は二度としません。失言でした」


「私も、言い方きつかったです。……でも、条文があると、言い直せますね」


 セルジュが頷く。


「結論として、あなたは最優先で守られるべきです。家族案件も、聖女業務も、その前に」


「それ、また条文化されますよ」


「望むところです」


 私は笑って、空になりかけたカップを揺らした。


「じゃあ、次は……終業のお茶、もう1杯だけ」


「賛成です。今夜の会議は、延長します」


 その言い方に、今度は胸が痛くならなかった。

 湯気の向こうで、セルジュの目が少しだけ甘くなるのを、私は見逃さなかった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。喧嘩になりかけても、お茶と条文で「壊れない」を更新できる――そんな夫婦になってきました。次は、この条文が外でどう読まれるのか。続きが気になったら、ブクマ&広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると励みになります!

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