第32話 「重い溺愛」の正体
署名の列が途切れた瞬間、大広間の空気がすっと冷えた。笑い声は廊下の先へ流れ、残ったのは蝋燭と乾きかけのインクの匂いだけ。
テーブルの上には、《ラグランジュ家家族契約》の写し。ページの端に、女神様の羽ペンが走った光の余韻がうっすら残っている。
制度としては決着した。条文も、署名も、登録も。
なのに胸の中は、すっきりより先に重さが来た。
「リディアさん」
振り向くと、お義母様がいた。片付けの指示を終えたばかりなのに、背筋は崩れていない。
「少し、お時間をいただけますか」
「もちろんです。何か不備が?」
「いえ。お礼を言いたいの。それと……あなたに見ておいてほしいものがあるのよ」
視線の先では、お義父様とセルジュさんが親族に挨拶をしている。いつもの涼しい顔のまま、肩だけが少し硬い。
私は小さく頷き、お義母様の後を追った。
◇
夕暮れの廊下を歩きながら、お義母様は雑談みたいに言った。
「……あの子の書いた契約を、こんな形で通してくださる日が来るなんてね」
「私だけの力じゃありません。皆さんがサインしてくれたから」
「それでも。あの子は昔から、書類でしか世界を直せない子だったから」
扉が開く。小さな部屋の中に、黒い木箱、古い契約書の写し、勲章と徽章が整然と並んでいた。
真ん中の木箱を見た瞬間、言葉が先に浮かぶ。
駒箱。
背中がひやりとした。
お義母様は蓋にそっと触れ、淡々と言う。
「夫はよく言っていました。『ラグランジュ家は、国に駒を差し出す家だ』と」
「……駒、ですか」
「綺麗な言い方でしょう? 人の命のことを、盤上の駒に言い換えるの」
以前、セルジュさんの幼い頃の話を聞いたときの横顔が重なった。兄たちを見送って、拳を握りしめていた少年。
お義母様は棚から薄いノートを取り出した。角が丸く、何度も開かれた跡がある。
「これはね……あの子が小さいころ、隠していたもの」
開かれたページには、子どもの字で「名前」と「日付」。行の途中でインクがにじんで黒い染みになっている。
「……あの子は、小さなころから、『戦場から戻らなかった人』の名前ばかり、こうして書きつけていました」
喉の奥が縮んだ。
お義母様は私を見て、そこで言い切った。
「彼はね、守れた功績を数えるより――守れなかったものを数えて生きてきた子なんです」
生き残った罪悪感。
以前、セルジュさんがぽつりと漏らした言葉が、遅れて私の中で噛み合う。
「本来なら、あの子は跡取りとして守られる側に置かれるはずでした。でも、兄たちが前線に出ていくたび、自分だけが安全圏にいることに耐えられなかった」
「……」
「だから『生き残った者は、盤面を見続ける役目を負わされる』なんて言って、罰みたいに自分を縛ったのよ」
そして、お義母様は小さく笑った。笑みの形だけで、目は笑っていない。
「『本来、守られる側だったはず』って。あれはね……守られたことがない人の仮定形なの」
胸が痛い。あの夜、セルジュさんが「守られる側」という文字を見つめていた顔が浮かぶ。
お義母様はノートを閉じ、ぽつりと落とした。
「……生き残ったことに、少しは意味を足せるでしょうかね。私たちも。あの子も」
私は返せず、深く頭を下げた。
お義母様は今度こそ柔らかく微笑む。
「あの子は今でも、頭の中で『失った駒』の数を数えていると思います。どうか、あなたの前では……『守れたもの』の数も、数えさせてあげてください」
「はい。私……そのための条文を、作ります」
頭の中で女神様が小さく囁いた。
『被害者に、「守られる側の履歴」を追加入力してあげるの、大事ですよ』
私は机の上の家族契約の写しを見た。余白が、まだ静かに残っている。
守れなかった名前だけじゃなく、守れている名前も――いつかここに。
◇
夜の街道。馬車の窓の外は星と畑だけで、室内はランタンの灯りが揺れている。膝掛けの下で手が冷たくなっていた。
しばらく沈黙。
私は外を見ているふりをしながら、さっきのノートの字を思い出していた。
セルジュさんが咳払いをひとつして、いつもの声を整える。
「本日は長時間の条文確認と一族会議、お疲れさまでした。王都到着後は最低でも2日は公務を絞りましょう。聖女殿の稼働率をここで落とさねば――」
「……稼働率」
笑いそうになって、笑えなかった。胸がつまる。
セルジュさんは淡々と続ける。
「今後、あなたがこの家に来る際は、移動前後に必ず休暇を挟むべきです」
「はい」
「今日のような感情負荷の高い案件の後には、甘味か温浴をセットにしましょう。国益上も合理的です」
「国益……」
「疲弊した聖女の判断力低下は、政務に波及しますので」
頭の中で女神様が、半分呆れた声を出した。
『出ましたね。『過去案件由来・こじらせ重い溺愛パターン』。お仕事ロジックでここまで甘やかせる人、なかなかいませんよ』
私は息を整えて、言った。
「セルジュさん。さっき、お義母様とお話をしました。……ノートを見ました」
「……」
「守れなかった人の名前を、書いていたって」
彼の指先が一瞬だけ膝掛けを掴み、すぐ離れる。
私は続けた。
「責めたいわけじゃありません。だから……これからは、守れたものの数も、一緒に数えてください」
セルジュさんは驚いたみたいに目を瞬いて、それから、いつもの口調に逃げ込むように言った。
「……検討に値する条文案ですね。生き残った者が、守れたものまできちんと数える文化は、本来、国益にも適うはずです」
泣きたいのに、笑いも出る。
その裏にある戸惑いが、痛いほど見えた。
女神様がくすっと笑う。
『はい、議事録取っておきますね。『生き残った者の新しい義務案』。次の契約更新のとき、きっと役に立ちます』
私は涙を拭って、少しだけ座り直した。肩が触れるか触れないかの距離で、静かに告げる。
「今日の分、もう1行だけ、私の中で決裁しました」
「……決裁」
「――セルジュ・ラグランジュは、ちゃんと生き残っている人です」
彼は固まって、返事を飲み込んだ末に、短く言った。
「……承知しました」
ランタンの灯りの下、家族契約の写しが膝の上にある。
私は余白に指先を滑らせる。
ここから先の余白には、『守れた人たち』の名前も、ちゃんと書いていきたい。
馬車は王都へ向かって、静かに揺れ続けた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
セルジュの『守り方』が少しずつ形を変えていく回でした。
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