第5話 お前を愛するつもりはない
王宮の大広間の扉が、背後で重く閉まった。
さっきまで耳を満たしていた楽の音も拍手も、石造りの回廊に一歩踏み出した途端、遠い別世界みたいに薄れていく。残るのは、私と隣を歩く王太子レオン殿下の足音だけだ。
「今日はご苦労だった、聖女リディア」
殿下は、宴の最中と変わらない、公務用の笑みのまま言った。
「陛下や客人の前で、聖女としての役目を果たしてくれて感謝する」
「身に余るお言葉です、殿下。本日の婚約発表も、滞りなく済みましたね」
口から出るのは、訓練された模範解答だ。
でも胸の奥では、別の言葉が渋滞している。
──これから、私はこの人と暮らすのだ。
聖女としてだけでなく、王太子妃としても。
人払いされた回廊には、他に誰もいない。護衛騎士たちでさえ、少し離れた場所に控えているだけだ。
だから、今なら。少しくらいなら、仕事以外の話をしてもいいはず。
「殿下。あの……これからの生活について、少し伺ってもよろしいでしょうか」
「生活?」
殿下の足取りが、わずかに緩む。
「はい。聖女としての務めは、これまで通り大神殿中心で構いません。ただ、王宮との行き来や私の居室のこと、休息の時間の取り方など、事前に取り決めをしておけたらと」
なるべく感情を込めないように、項目だけ並べる。これは恋の相談じゃない。案件のすり合わせ。そう自分に言い聞かせながら。
「細かいことは侍従に任せればいい。必要な段取りは整えさせる」
レオン殿下は、窓の外の塔を見たまま、視線をこちらへ戻さない。
「君の負担は、王宮として可能な限り減らそう。だが、国難の折には、聖女も王太子妃も休むわけにはいかない」
国難。
前の世界の上司も、よくその言葉を使っていた。「今月は非常事態だから」「ここだけは踏ん張りどきだから」。
けれどここは、もうあの会社ではない。私はひとつ息を吐いて、喉まで出かかった毒を飲み込む。
「国難の際に働くのは当然です。私が伺いたいのは、平時の話でして」
「平時?」
「はい。仕事をきちんと果たすためにも、どこまでなら休んでよいのか、どこからが限界なのか。お互いに知っておけたら、と思いまして」
言いながら、自分でも図々しいことを言っている気がしてくる。
それでも、聞かずにはいられなかった。前任の聖女が倒れた話も、見習いが奉仕の最中に崩れ落ちた夜も、まだ目の裏に焼き付いているからだ。
「……そのような細部は、いちいち事前に決める必要はないだろう」
殿下の声は、月光より冷たく感じられた。
「王宮も神殿も、状況に応じて柔軟に対応する。君は与えられた場で、役目を果たしてくれればいい」
「柔軟に……」
それは、私の知っている危ない言葉だ。
前の世界でも、就業規則の曖昧な文言に、よく添えられていた。裁量。自己判断。やむを得ない事情。
「もちろん、聖女としての務めはこれまで通り全力で果たすつもりです」
私は笑みを保ったまま、言葉を継ぐ。
「ただ……恋愛でなくて構いません。白い結婚でも。それでも、せめて、お互いに人としての信頼だけは、築けたらと思うのです」
「信頼?」
今度こそ、殿下がこちらを見る。けれど、その灰色の瞳には、戸惑いとわずかな警戒しかない。
「困ったときに助けを求められるとか、限界が来たときにもう無理ですと言えるとか。そういう相手であってほしい、と」
言ってから、胸がきゅっと縮む。
これは案件ではなく、私自身の、ささやかな願いだ。契約書の余白に、小さく書き添えたい一文。
「……俺は」
レオン殿下が、歩みを崩さずに言う。姿勢も声も、公務の時と同じだ。
「俺は国と民に信頼されるべき立場だ。王太子として。個人として誰かに寄りかかる余裕はない」
「寄りかかるつもりはありません」
気づけば、少しだけ語気が強くなっていた。
「私が求めているのは、弱音をぶつけ合うことではなくて。正直に限界を告げても、責められない関係です」
それでも、と喉の奥で言葉が渦巻く。
それでも、私はあなたの役に立ちたいし、あなたにも私を一人の人間として見てほしい、と。
けれど、その言葉は最後まで形にならなかった。殿下の横顔が、あまりにも固く、決意で縫いとめられていたから。
「俺は、王として生まれ、そのように育てられてきた」
殿下の声は淡々としているのに、どこか自分自身に言い聞かせているようだ。
「感情や私生活より、国と責務を優先するように。君との婚姻も、その延長だ。……君にとって不公平なのは分かっている」
「不公平だなんて」
反射的に否定する。
「だから、最初に言っておく」
回廊の端に近づいたところで、殿下が足を止めた。窓の外には、王都アルシエルの灯りが、夜空と溶け合ってまたたいている。
「君に、期待されても困る」
その前置きで、胸の奥がひやりとした。
「……期待、ですか」
「俺は国のための駒だ。誰か一人を特別に愛するつもりはない」
言葉が、石壁にぶつかって、もう一度私の耳に返ってくる。
レオン殿下は、まっすぐ前だけを見て、続けた。
「お前を愛するつもりはない。愛せなくても、役割を果たせばいい」
その一文は、きれいに整えられた条文みたいだった。
主語と述語が過不足なく並び、解釈の余地も、情状酌量の余白もない。
ああ、この人は本気で誠実なつもりなのだ、と分かってしまう。
最初から期待させておかなければ、あとで裏切ることもない。最初からないと明言しておけば、そこから増えないぶん、きっと誰も傷つかない。
──そう信じている顔だった。
胸の内側から、何かがすっと冷えていく。
けれど私は、笑みを剥がすことができない。
「……承知いたしました、殿下」
喉の奥が少し焼けるのを、言葉で押し流す。
「恋愛を求めるつもりはありません。聖女として、王太子妃として、与えられた役割を果たします。それが、国と大神殿のためになるのなら」
私のため、ではなく。
自分で選んだはずの言葉なのに、耳に届いた瞬間、他人の台詞みたいに聞こえた。
《……これは、もめるやつですね》
頭の奥で、柔らかい声が響く。
契約の女神様だ。いつの間にか、静かに成り行きを見ていたらしい。
《お前を愛するつもりはない。愛せなくても、役割を果たせばいい……はい、問題発言、ひとつ登録っと》
「登録?」
心の中で思わず聞き返す。
《ええ。今のやりとり、全部発言ログとして保存しました。婚約契約の実態確認のときに、証拠として出せるように》
口調はいつも通り軽いのに、内容はやけに冷静だ。
《片方が明確に愛さない宣言をしておきながら、一方的に奉仕を求めていた、となれば……将来、いろいろと困るでしょう?》
「将来、ですか」
《はい。たとえば三年後に、この契約、破綻してません?って聖女さんに聞かれたり、とか》
「女神様。どうか、このご発言は内密に」
《もちろん、勝手に流したりはしませんよ。必要になったときだけ、形式通りに提示します》
形式通り。
それは、この世界で一番、怖い言葉のひとつだ。
私は胸の奥をそっと押さえる。
こんなふうに傷ついたことも、きっと聖女として当然で片づけられるのだろう。
それでも私は笑う。
「改めて、殿下。本日はありがとうございました」
振り返って、深く裾をつまみ、宮廷礼をしてみせる。
「今後とも、聖女として、王太子妃として、どうぞよろしくお願いいたします」
「……ああ」
レオン殿下は、少しだけ視線をそらしてから、短く答えた。
回廊を吹き抜ける夜風が、マントの裾を揺らす。
さっき殿下が告げた一文が、まだ耳の奥で何度も反響している。
お前を愛するつもりはない。
愛せなくても、役割を果たせばいい。
三年後の神前確認式で、この言葉が国中の前でログとして読み上げられ、私がようやく自分のための契約を書き始めることになるとは、このときの私はまだ知らなかった。
「お前を愛するつもりはない」と宣言されてしまったリディアの第5話でした。
彼の不器用さは愛情の欠如なのか、それとも…?三年後の神前確認式で、この一言がどう響くのか、作者も震えながら書いています。
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