第29話 「『家族契約』を書き換える交渉テーブル」
ラグランジュ家本邸の応接間。磨かれた木のテーブルの上に、古い羊皮紙が1枚と、新しい紙束が数部並んでいた。
どちらも契約書なのに、古いほうは黒い鎖みたいな加護のタグが絡みつき、新しいほうは薄い金の糸が頼りなく光って見える。
隣でセルジュさんが椅子の背に手を置く。指先が、ほんの少し硬い。
向かいには当主であるお義父様と、お義母様。周囲を叔父叔母、兄弟の未亡人、若い従姉弟たちが囲んでいた。お茶の湯気より、沈黙が重い。
「きょうは旧き約定を踏まえつつ、家の在り方を見直す」
お義父様が硬い声で言う。家族の会議なのに、最初の単語が「約定」なのが、この家らしい。
私は紙束の冒頭を指さした。
「今回の再設計で、まず1行目を変えました」
「第1条 ラグランジュ家は、『国を支える人材』と『家族としての生活』を両立することを目的とする」
叔父様の1人が眉をひそめる。
「『国を支える』ではなく、『国を支える人材』…?」
セルジュさんが静かに補足した。
「これまでの契約は、『家族そのもの』を国に貸し出していました。今後は、『家族の中から育つ能力や経験』を国へ提供する形に変えたい」
私は頷く。
「目的をこう定めると、後で出てくる条文の解釈が全部縛られます。だから最初に置きました」
紙がめくられる音。私は構造を示す。
「案は3章立てです。第1章は国との約定。第2章は家族内の役割分担と相続・縁談。第3章が『守られる側』の定義と、安全・休養条項」
空気がわずかにざわつく。抵抗が来るのは、そこだ。
説明を終えたとき、沈黙が落ちた。理解の沈黙ではない。怒りと悲しみが、言葉の形を探している沈黙。
未亡人の方が、震える声で言った。
「……死んだ人たちは、報われるんですか」
叔父様が勢いづく。
「家の誇りを捨てろと言うのか! 国に身を差し出してきたから、我々は今ここにいる!」
別の叔母様が噛みつく。
「国のために倒れた者を、無駄にする気?」
私は怒鳴り返さない。ここで勝ち負けを作ったら、契約はまた鎖になる。
「誇りを捨てろとは言いません。ただ、『生き残った者だけが罰を受け続ける仕組み』は、国益でも家益でもありません」
「契約は、喧嘩をなくすための魔法ではありません」
私は自分の声が震えないように、ゆっくり言う。
「でも、『喧嘩しても壊れない』ための枠なら作れます。亡くなった人の誇りも、生き残った人の生活も、どちらかを切り捨てないために」
叔父様が私を睨む。
「国益だと? 聖女が何を知っている」
隣のセルジュさんが、淡々と紙を1枚滑らせた。数字と線が並ぶ手書きの表。
「旧契約のままでは、ラグランジュ家は人材供給の機能を失います」
セルジュさんは感情を乗せずに言う。その無機質さが、むしろ誠実だった。
「全員が『身命を捧げる』前提では損耗が早すぎる。次世代が育たない。国が必要としているのは、死者の数ではなく、継続して働ける人材です」
叔父様が噛みつく。
「それでも出すのが誇りだ!」
「誇りは否定しません。ですが、誇りで国は回りません。任期制と休養条項で、提供を安定させる。これは国益で、家族が壊れないことは家益です。両立できます」
私は第3章を開く。
「次に、『守られる側』です。母や未亡人、病弱な者、未成年の者を守られる側と定め、生活保障を家の義務とします」
私は続けて、わざと一拍置いた。
「……そして、守られる側には『当主が休養を要すると判断した者』も含めます。役職の有無は問いません」
私の視線が、ほんの一瞬だけセルジュさんの名の欄に落ちる。お義父様の眉が動き、お義母様の指が膝の上でそっと緩んだ。
「守る側は『休ませる義務』を負い、過労や負傷を理由に役割の一時停止を申告できます」
「甘い!」と誰かが吐き捨てる。
私は頷く。
「戦場は止まりません。だからこそ、止められるところは止めます。止めないと、家が全員まとめて壊れます」
セルジュさんが静かに付け足した。
「損耗の責任は、個人の根性ではなく制度へ。損耗が前提の制度は、国防を削ります」
若い従姉弟の少年が、恐る恐る手を挙げた。
「……この契約なら、僕、ちゃんと勉強して任期制の担当を目指したいです」
その一言が、部屋の鎖に小さなひびを入れた気がした。
お義父様は旧契約書と私たちを順に見て、苦い声で言う。
「……国としての安定、か。よかろう。一度、『試験運用』として結ぶ」
お義父様は短く咳払いした。
「条件がある。国への説明は、当主である私ではなく――宰相補佐であるセルジュ、お前が担え。家の新しい約定を、国益として通せ」
「承知しました」
セルジュさんは即答した。背筋が、少しだけ柔らかく見えた。
その瞬間、胸の奥の緊張が少しほどけた。
視界の端に、いつもの光。
《記録:試験運用 採用》
会議後、私たちは廊下を並んで歩いた。靴音だけが響く。壁の肖像画が、こちらを見下ろしている。
私は思わず口にした。
「……『家族ごと国庫預かり』って、やっぱりひどい比喩でしたね」
セルジュさんは苦笑して肩を落とす。
「事実を述べただけですよ。ただ、ようやく『返却交渉』までこぎつけられたのは進歩です」
私は昼間の自分の言葉を思い出す。
「セルジュさんは、やっぱり守る側が似合いますね……って、さっき言いましたけど」
彼は少し間を置いて、低い声で言った。
「本来は、私の方が守られる側だったはずですが」
「……どういう意味ですか?」
窓辺に寄った彼は、夜風にカーテンを揺らしながら淡々と話す。
「当初は前線に出さない枠でした。体力より、記録や計算が向いていると判断されて。けれど、いつの間にか守る側の代表になっていた……それを誇りだと思い込んできました」
言い終えた指先が、少し震えた気がした。
私は言葉より先に、彼の手の甲にそっと触れる。彼は避けなかった。
客間のロウソクが揺れ、机の上のメモに「守る義務」「休ませる義務」の文字が柔らかく浮かぶ。
そこへ、女神の事務的な日報テロップ。
《本日付け、ラグランジュ家本邸客間前。『守る側/守られる側ラベル』暫定更新。感情決裁:可決。――明日、正式な署名に持ち越し》
私は思わず笑いそうになって、口元を押さえた。
ひとまず一夜だけ、『守られる側にセルジュさんを含める』という非公式の条文が、この家に置かれる。
明日、それは――正式な署名の列に並ぶことになる。
ここまでお読みいただきありがとうございます!今回の交渉、あなたならどの条文にサインしますか。次話は「試験運用」の署名で、言葉にならない本音が噴き出します。面白かったら広告下の☆☆☆☆☆で評価、ブックマークで応援いただけると執筆の燃料になります!




