第28話 遺産相続と、生き残った罪悪感
ラグランジュ家本邸の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
王都の屋敷よりも古く、静かで、どこか「決まりごと」だけが生きている匂いがする。
隣を歩くセルジュ様は背筋が真っ直ぐで、いつもの宰相補佐の顔だった。けれど手袋越しの指先だけが、ほんの少し硬い。
「リディア。今日は、私が話します」
「ええ。……でも、無理に全部ひとりで抱えないでくださいね」
「問題ありません。手続きですから」
その「手続き」という言葉が、胸の奥で小さく引っかかった。
重々しい扉が開き、大広間に通される。
壁いっぱいに飾られた肖像画。若い男たちが多い。視線の角度が、みんな同じだ。前だけを見ている。
長机の上には、古い契約書の束と、財産目録らしい紙の山。戦場の代わりに、遺産を並べた盤面――そんな感想が、勝手に浮かんだ。
《うわぁ……重い部屋。胃がキュッとなりますね》
頭の中で女神様が小声で言う。いつもの軽口なのに、今日は少し抑えめだ。
ふわり、と空中に薄い光が走った。女神様のUI。
簡易系図が表示され、名前が並ぶ。そのうち半分以上が灰色に沈んでいる。生きている人だけが、濃く光っていた。
私は思わず息をのんだ。灰色の数が、家の歴史を語っていたから。
「――では、始める」
セルジュ様が「父上」と呼ぶ当主が、手元の相談書を読み上げる。声は低く、渇いている。
「先代当主の逝去に伴う遺産の処理。ならびに、『国家に身命を捧げる』旧契約に基づく家督と奉仕義務の承継について」
途端に、親族たちがざわついた。
「昔から跡取りが全部まとめて引き受ける決まりだ」
「国との契約に逆らうわけにはいかない」
「それより縁談は? 血筋は途切れさせられないでしょう」
「宰相補佐になったのなら、国への奉仕も増える。家の名誉だ」
名誉。誇り。そう言いながら、誰も「生きて帰れ」とは言わない。
言葉が飛ぶたび、セルジュ様の表情が少しずつ「無」に固まっていく。官僚としての仮面。私が知っている、あの「平然と仕事を片付ける顔」。
当主が、契約書の該当ページを広げた。
女神様のUIが勝手に反応し、条文が光で拡大される。
《1、国家に最も益する素質を有し、生き残りたる男子1人をして、家督・財産・一族の奉仕義務一切を承継せしむること。》
文字が、目の前で赤く滲んだ気がした。
最も益する素質。生き残り。……一切。
《「優秀かつ生き残った者に全部押しつける条文」ですね。ブラック企業の「できる人に全部投げる」の古典版です》
(女神様、例えが刺さりすぎです……!)
笑っていい場面じゃないのに、口角が震えそうで、私は唇の内側を噛んだ。
「セルジュ」
当主が息子をまっすぐ見た。
「お前が継ぐ。……生き残った者の責任だ」
その瞬間、セルジュ様の目が、ほんの少し揺れた。
数日前、彼が淡々とこぼした言葉が蘇る。
――生き残った者は、盤面を見続ける役目だ。
あれは説明じゃない。呪いの自己紹介だった。
セルジュ様は口を開く。
「承知しました。私が引き受けます。……私1人で十分です」
大広間が、納得したように静まる。
その静けさが、怖かった。誰も「本当に?」と聞かない。聞いてはいけない空気だ。
「……休憩を挟む。各自、席を外せ」
当主の号令で、親族がぞろぞろと散る。私はその隙にセルジュ様の袖を引いた。
廊下の窓辺。冷たい光が差し込む。
彼は、息を吐く音さえ丁寧に隠していた。
「セルジュ様。今の……『私1人で十分』って」
「事実です。私が背負えば、他が生きられる」
「それ、背負う人が潰れてもいいって言い方ですよ」
言った瞬間、しまった、と思った。きつすぎた。
でもセルジュ様は怒らなかった。代わりに、遠くを見るみたいに目を細める。
「兄たちは、命令に従って、前へ出ました。私が止められなかった」
「……だから、次は自分が全部、ですか」
「罪の計算をしているわけではありません。……ただ、空席を埋めるのが、私の役目です」
胸がぎゅっと潰れる。
役目。盤面。駒箱。全部、彼の言葉だ。彼の世界が、そういう単語でできている。
《リディア。あなたの番です。ここ、放置すると「優秀な人ほど倒れる制度」が固まりますよ》
(分かってます。……でも、怖い)
休憩の終わりを告げる鐘が鳴り、私たちは大広間へ戻った。
私は椅子の背に置いた手を、ぎゅっと握った。
ここで黙っていたら、私はまた「聖女の微笑み」だけで流す人になる。あの頃に戻る。
「……失礼します」
声が思ったより大きく響いた。視線がいっせいに私へ向く。
セルジュ様の肩が、ほんの僅かに硬くなる。
「これ、能力ある人ほど潰れる奴隷契約ですよね」
空気が凍った。伯母らしき人が眉を吊り上げる。
「何を、侮辱ですか」
「いえ。条文の機能の話です」
私は机上の契約書を指差す。
「義務の対象が『個人』じゃなく『一族』で、期間も『生き残りたる』で実質無期限。しかも『奉仕義務一切』。範囲の上限がありません。これだと――」
言いながら、胸の奥が熱くなる。
セルジュ様の「問題ありません」が、どれだけ痛い言葉か分かってしまったから。
「優秀で生き残った人に、『罰ゲーム全部乗せ』する契約は、国益でも家益でもありません」
誰かが息を呑む音がした。
当主が苦い顔で問い返す。
「では、お前はどうしろと言う。国との約定を破り、家の誇りを捨てろというのか」
私は少しだけ、セルジュ様を見る。彼は視線を落としていた。けれど、落としたまま逃げてはいない。
だから私は、正面に向き直った。
「誇りを捨てろとは申しません。ただ、『生き残った者だけが罰を受け続ける仕組み』は、誇りじゃない。……そう申し上げたいのです」
女神様のUIが、羽ペンでさらりと提案文を表示した。
《提案:ラグランジュ家・家族契約再設計テーブルの設置》
《はい、議題ができました。あとは、誰が「逃げない」かですね》
(……逃げないのは、私もです)
「いったん、『国家との約定』と『家族の幸せ』を、同じテーブルに並べてみませんか」
私はゆっくり息を吸う。
「そのための契約づくりなら……宰相補佐の妻として、喜んでお手伝いします」
セルジュ様が、ほんの僅かに目を伏せた。救われたみたいに。
そして当主へ向き直り、いつもの業務口調で言う。
「……検討に値する提案です。父上。今夜、資料を整理し、改めて協議の場を設けましょう」
盤面の上に、初めて「交渉」という駒が置かれた気がした。
こうして、「国家のための駒箱」だった家に、初めて「家族契約を書き換える交渉テーブル」が置かれることになる。
ここまでお読みいただきありがとうございます!ラグランジュ家の『契約』が動き出しました。次話、セルジュの胸の内がさらに見えてきます。面白かったと思っていただけたら、ブックマーク&広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると励みになります!




